『ノー・カントリー』再見

 『ノー・カントリー』を99円という値段にひかれてアマゾンで再見。感想を書こうとして前にも書いたことを思い出しました。

 少しずるっこというかさぼりですが、今はきちんと論じる余裕がないのと、14年前の内容も悪くはない?ので、2009年3月1日の旧「越境と郷愁」のブログを再録。

 と言うのは研究会のアップダイクの発表の後に、懇親会でレイモンド・カーヴァーの「改訂」が話題になり、その確認作業と、4月1日締め切りの書評の準備があって。時間はいくらでも?あるのですが気持ちの余裕がない。それで昔の自分のブログで。かつ原作も再読中。これもけっこうおもしろい。

キネマ旬報』の2月下旬号に今年のベスト・テンが載っているが、ベスト・ワンが『ノー・カントリー』だった。例によって原作とDVDを比べてみる。映画では組織の金を奪ったモス(ベトナム帰還兵)を追う殺し屋のシュガーがスペイン人俳優ハビエル・バルデムの怪演によって際立つ。
 殺人鬼シュガーを究極の悪、純粋悪と呼べるようなその悪の造型が物語を単純にしているようにも思える。誰も勝てないような悪はその容姿や殺し方も含めて笑ってしまうような登場人物にも思える。監督・脚本がコーエン兄弟なのでオフ・ビートな犯罪映画と考えれば、無敵の殺人鬼は不気味であるが、同時にリアリティを超えてファルス(笑劇)的な人物と化す。モスとシュガーを追う保安官ベルにはまたもT・L・ジョーンズ。
 原作の翻訳者(黒原敏行)の解説によれば、シュガーは人間の傲慢さ(ヒューブリス)を懲らしめるネメシス(ギリシャ神話の怒りの女神)だとするが、だとするとギリシャ悲劇はそのまま人間の愚かさを笑う笑劇でもあるのだろうか。
 また原作ではベル保安官の独白がストーリーの合間に挟まれるのだが、映画では他の人物との対話に置き換えられている。映画の視点は基本的にカメラの三人称なので、登場人物の独白はボイス・オーヴァーで語られる事が多い。多用すると物語がとまるのでダイアローグにしたのかなと推察。T・L・ジョーンズは自分は死を覚悟しているのに、助けたいと思っている人たちが殺されて行くのをなすすべもなく見ているしかない無力な保安官を演じて、『告発のとき』のような精彩がない。

 

2,017年1月17日のブログから

 コーマック・マッカーシ―の”No Country for Old Man”はイエーツの「ビザンチウムへの船出」からの引用。2007年コーエン兄弟が映画化していますが、邦題の『ノーカントリー』では何のことか分からない。「ビザンチウムへの船出」は『塔』(The Tower、1928年)に収録されています。1923年にノーベル賞を受賞した後ですが、詩境は深みを増し、老境への思いを表出しています。若さや命の営みの饗宴とは無縁の老人は無視されるような世界を離れて、ビザンチウムへと旅立つ歌です。

  写真は左から保安官(トミー・リー・ジョーンズ)、組織の金を盗んだモス(ジョシュ・ブローリン)、究極?の殺し屋(ハビエル・ベルデム)。