舞台劇としての『ロープ』

拳銃魔』(1950)を先に見ていて、主演のジョン・ドールが出ているヒッチコックの『ロープ』(1948)は未見だった。

 『拳銃魔』のほうは「B級ノワールと一流脚本家」というタイトルで2020年5月6日のブログでふれていました。監督はジョセフ・H・ルイスと言う監督で、脚本にダルトン・トランボが加わっているので一流脚本家と書きました。確かに作品数が多くB級映画のルイス監督ですが、『拳銃魔』のカメラワークは特に銀行強盗の場面は緊迫感があって面白かったです。

 そのジョン・ドールが『ロープ』の準主役で出ていて驚きました。ビリング(タイトルで俳優の出てくる順番)はもちろんジェームズ・スチュアートがトップですが、セリフも登場場面も多く実質的な主役はジョン・ドールで、その殺人の片棒を担ぐフェアリー・グレンジャーが2番目か。このフェアリー・グレンジャーは同じヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951)でも主役出てきます。実はその時の交換殺人を持ちかけるロバート・ウォーカー(俳優名)の方に役と俳優の素の部分の両方から少しホモセクシュアリティを感じたのでした。

 その後、フェアリー・グレンジャーが晩年に書いた自伝でバイセクシュアルであり、たくさんの女優や俳優と浮名(古いかな)を流したと暴露したようです。とすると、ロバート・ウォーカーはフェアリー・グレンジャー本人が気づいていないホモセクシュアリティを察知したのか。監督自身は主演女優への接近、今ならセクハラとされる行為でも知られていますが、ホモセクシュアリティにも関心があったと思います。というか人間のセクシュアリティをふくめ、本能やダークサイドに関心があったのだと。

 『ロープ』の殺人カップルではなく相方同士であるブランドンとフィリップは批評でホモセクシュアル的な要素が濃厚と書かれていて、フィリップ役のフェアリー・グレンジャーのそっちの方の性向を監督は見抜いてのキャスティングだったのかなと。設定は大学(ハーヴァード?)出たてのエリートか。マンハッタンのペントハウスに二人で住んでいます。フィリップがピアノの公演のために休暇でブランドンの実家に滞在するんだと言うセリフもありました。パーティは二人がしばらくNYを離れるので、お別れパーティだとか。

拳銃魔:』ではアナーキーな相方の女性に引っ張られていたジョン・ドールは、『ロープ』ではフェアリー・グレンジャーを励まし?殺人後のパーティを仕切ります。招待客は殺されたデヴィッドのフィアンセ、父親、フィアンセの元彼と悪趣味です。その悪だくみを見抜くのが若者たちの在籍した進学校の寮監だったルパート・カデル(ジェームズ・スチュアート)。

 原作の舞台劇では仲間を"undergraduate"と言っているので「学部生}つまり大学生が主たる登場人物のようです。俳優は23才~28才くらいなので大学を卒業した若者に見えます。それと有名な哲学者(映画好き)がルパートを大学教授と間違っているので、翻訳その他でもそうなっています。つまりあまりきちんと『ロープ』を見ていないのだろうか。

 この途中から登場するルパートが犯罪をあばく探偵役です。デヴィッドの婚約者のジャネットは、ルパートの事を自分の書く薄っぺらいものではなく、哲学などの小難しい本の出版をしていると話していました。前段とも関係しますが。ジェームズ・スチュアートは若者たちの元教師(舎監)で今は出版業を営んでいるこの知的な探偵役をうまく演じていました。『裏窓』や『めまい』よりもいいと思います。グレース・ケリーやキム・ノバックの恋人役よりも柄にあっています。

 最後にデヴィッドの遺体を発見したルパートは、ブランドンの優者の劣者への殺人も含めての優位と言うか何でもしてもいいという、ニーチェの超人の間違った解釈だと思いますが、それを否定し社会の法と平等を主張する演説をします。でもそれはあまりにも当たり前で、平凡な言葉だとかえって白けてしまう。何故だろう。ブランドンとフィリップの行為をハリウッド的に否定する検閲を意識した浅薄な道徳だからだろうか。

 舞台劇のようだと感じていましたが、実際に舞台劇がもとでした。セリフが知りたくて原作もペーパーで注文しました。ヒッチコックはカット割りをしない映画を実験的に撮ってみて、それがある程度成功し、でもやっぱりカットとモンタージュが映画の基本だと言っています。映画なんてコンテンツではなくテクニックだとヒッチコックは考えていたんだと思います。それが技術をアカデミックに分析する現代の映画批評とマッチしての高評価なのだと思います。