コロナと外食

 どうもコロナのせいではなくて、かみさんが暑くて夕食の支度がつらそうなので、25日夕方は西町北の中華のお店中華厨房「あんにん」で。初めて行きましたが、けっこう混んでいる。コースを1人前と単品で。

 雲白肉(うんぱいろう、豚肉薄切り、ニンニク・ソース)が美味しかった。八角の香りが効いている。餃子と春まき、回鍋肉(ほいこうろう)はまぁまぁでした。

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 帰りは少し暗くなったところを自転車で帰宅。

 月曜日は山の手。定食屋はビールなしであきらめ、何度か行った「クボーノ」で。うどんの寺屋とスープ・カレーの「アナグラ」の間にあります。

 生ビールのグラスが美味しくてお代わり。季節の野菜のガーリック・ソテー。ピザもアンチョビが効いてて美味しい。でも生地が少し薄すぎるかな。小エビとキャベツのペパロンチーニも美味しかったです。スパゲッティーではなく、スパゲッティーニだった。

 レジに飾っている坂本(勤)先生の色紙をみて、話してみると奥さんが教え子のよう。レジでの先生がらみの雑談は前にもしたかも知れません。でもお互いに覚えていなければ、それはそれでいいかなと。5年位前かな、東京で偶然お会いして少し話をした事があります。かみさんの実家のさいとう・ギャラリーで個展をやっていた事もあるし、でも僕と兄貴とを混同しているようにも思えますが、いいか。

 

 

4名!‽

 昨日は祝日だった木曜日の振り替え。でも土曜の午後なので出てくる学生は少ないだろうなと予測はしていたのですが、何とたったの4名。

 けっこう授業の準備は時間をかけていたのですが・・・しかもまたノートPCの画面と教室のスクリーンの画面が同期しない。これは「複製」というキーワードで対処できるかとおもったができない。仕方なくいつもの教務センターのS木くんに来てもらおうと思ったけれど、土曜でいないのでM井さんに来てもらって解決しました。

 しかも前にあったトラブルで対処法を自分のスマホに入れておいた事もあった。本当に初歩的なトラブルで恥ずかしい。でも頑張って80分、4名相手に授業を終えました。

 疲れて帰宅。少し早いけどフライングしてお疲れ様のビールで乾杯。授業はあと1回。その後には250本のレポートの解読?採点が待っています。

 今日はこれから気分転換の早朝テニスです。

『虞美人草』母、愛の不在

  明治40年(1907年)に朝日新聞連載小説の第1作。漱石の職業作家としての第1作でもある。このブログで新しい読みを提示しようという訳では一切ない。もちろんそんな事はできもしないし。何とか読み終えて、例の石原さんと小森さんの批評を参考にして感想文を綴るのみです。

 前項の『道草』、お金小説で、兄姉や岳父、さらにもと養父からお金をせびられ、夫婦仲も芳しくないのに、けっこう面白かった。『虞美人草』の方が読みずらい。なぜだろうか。主人公というかファムファタールというか、「虞美人草」というタイトルから死ぬことを運命づけられているヒロイン藤尾に共感できないからだろうか。

 藤尾って今ならごく普通の、タイプにも思えます。つまり親や家の決めた相手ではなく、「自分で相手を決める。」もちろん当時では新しい女か。漱石の意図とは違い、読者には藤尾は人気があったようだ。読者って「朝日新聞」を読む山の手の中流階級の男性か。「自分で相手を決める。」事については現代の読者である僕も何も不満はない。でも藤尾の造形が美人で当時としては新しい女だとしても、人との関係において、その振る舞いにおいて共感できないように描かれている。じゃ、わがままで傲慢でも魅力的な女性っていそうだけど、そのように描かれている訳でもない。

 漱石の失敗作という批評も多い。かと言って藤尾に批判的な異母兄の甲野欽吾も説得力のある意見を言っている訳でもない。外交官だった亡き父の財産を継母と妹に譲るという無欲な高等遊民的な哲学者だけれど・・・

 『虞美人草』では父親が甲野の亡き父、甲野の従弟の宗近一(はじめ)・糸子兄妹の父親、そして藤尾が結婚相手と目する優秀な孤児小野の恩師と娘。ここで父の父性系、男性系の論理や言説が多数を占めて、母がいないと思いました。

  母親は藤尾の母である「謎の女」だけ。実は彼女は謎でもなんでもなく、計算高い母親であって、それはそれで生きるために仕方がないとしても、せめて血のつながった藤尾には計算のない、母性というか無償の愛を見せていれば藤尾の生き方も、人との接し方も違ったのでは。計算高い美人では新しい女も計算だけかとなってしまう。

   しかし無償の愛などと虚構の概念について口走ってしまいましたが、漱石の明治・大賞は男性社会なので、母性原理は家族内のみで、家族外・社会的には機能しないか。少なくとも長男相続の家督・家産の継承の中では、補完的にしか働かない。とすると藤尾の母と藤尾は甲野家の家督はともかく家産は手にしたい。その上での結婚の自由や相手の選択になる。財産がないと、お金のない小野君とは結婚できない事になってしまうし。

 コメディ・リリーフ的な宗方一と糸子の兄妹の兄が妹をからかい、妹がそれに負けていないで言い返すいくつかの場面が面白い。宗方一は冒頭に友人の欽吾と京都の叡山を上る場面も気の置けない男の友人同士の会話が楽しい。この宗方一は許婚のような藤尾には嫌われるが、他の登場人物と気軽に接することができるキャラクターとして、作者にとって物語を進める役割を持たされているように思える。

 そして最後に外交官試験に受かっロンドンに赴任した一に出した欽吾の「道義の廃れた結果が喜劇」だとする手紙への一からの返事「ここでは喜劇ばかり流行る」で小説は終わる。この最後の言葉は、ロンドンの事か、イギリスの事か、それともヨーロッパが道義の廃れた文明国家で、そんなところを範とするに足りないという漱石の持論の開陳なのか。小森さんと石原さんはもっと大きな歴史的コンテキストでとらえているようだが、これは難しくて・・・

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初めてトライしたなすびの実がなった。あと幾つかできそう。いつもいで、どうやって食べようか悩みます。

お金小説『道草』とソフトクリーム

 

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このテーマについては以前に書いた記憶があるのですが、記録を検索しても出てこない。記憶違いという事で。

 『こころ』と未完の『明暗』の間に書かれた1915年(大正4年)の『道草』は唯一の自伝的小説と言われいます。昔の養父がつきまとい、夫婦仲もいまいち、家計や借金の話が意外と多い辛気臭い?話です。でもけっこう面白い。

 「お金小説」と言ったのは飯田善國という詩人・画家が『夏目漱石を読む』という『リテレール別冊5』(1994年)においてでした。ロンドンの留学から戻った主人公の健三は当時のエリート中のエリートのはずですが、どうもお金に不自由しています。その理由の一つはエリートであるがために周囲から頼られてしまいます。金銭的に。妻の実家、兄と姉、そしてもと養父など。

 文中で健三は130円の月給を得ていると書いているが、それが1915年では40万円前後。たしかに30代後半の月給としては悪くはないけれど。

 『漱石研究』第9号(1997年)の「特集 漱石と家族」所収の丸尾実子さん執筆「民法制定下の『道草』」によると作品の舞台は明治35年で健三が洋行中の明治31年に出た民法が国民には浸透しつつあったが、不在だった健三は少しうといという設定のようです。実は戦前まで家督の家産も含めての長男世襲はずっとあったように思っていましたが、違っていました。明治以前の家産に基づく世襲を基本とした家は明治の資本主義社会では解体が進み、家督を継いでも戸主としての務めを果たせるとは限らなくなった。一方で学歴や本人の努力次第で次男や三男でも富や地位を手に入れいることが可能になっていった。それをみて政府は国民の統一を目的として、民法を制定し「家」の再生?再編成をだ図ったようです。

 でも健三は長男ではなく、長男はいて、しかし娘の結核治療のためにお金を使い果たし、弟に頼る羽目に。他の姉夫婦や元養父母は「洋行帰り」の弟や元養子にお金をたかる?のは、小説発表時の大正4年に施行された戸籍法が家制度を強化するもので、当時の読者は二つの法律の存在を頭に置きながら読んでいただろうと。つまり現代の僕らよりも健三に頼る人たちの事を良しとは思わないまでも、ある程度理解していた様です。漱石新聞小説は未来の読者はともかく、時事的な話題についてかなり意識して取り入れていたよう。

 さて昨日の夕方はまた自転車で近間に。発寒河川公園の西野緑道を上って右股橋まで行って、そこから下りの景色の正面の山々と両側の緑がとても心地よい。一昨日発見して、昨日も行ってきました。途中でケーキのお店YOSHIのソフトクリームで休憩。これもけっこうおいしかった。

2ヶ月ぶり

 

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駅前のN澤歯科で差し歯を入れて治療終了。

 東急デパで買い物を済ませ、満を持して大通りまで戻って「チャイナ・パーク」へ。やっとビールが飲める。紹興酒も。11時開店後に客はひっきりなしに入ってくる。問題は、ビールと紹興酒で餃子を食べて、注文したメインのねぎラーメンがなかなか出てこない。初めて?紹興酒のお代わりをしなければならない?事態に。

 家人に対する償い?の意味で、またJR駅前まで戻り「利休」で冷凍牛タンを買って地下鉄、バスを乗り継いで帰宅。けっこう疲れて少し昼寝をしてしまいました。

 でも夕食の前は、土曜の授業の準備をまじめにしました。

お気に入りと首痛

 

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 昨日は2ヶ月ぶりの早朝テニス。7時過ぎからやっているらしいが、こちらはawayなので遠慮して8時から参加。小学生高学年のDちゃんの成長ぶりが著しい。9時過ぎに帰宅。生協に行くと初めてレジで10分ほど並ぶ。日曜の開店後はかなり混むようです。その後、うちのコートで少しテニスをやり、仲間と雑談。

 昨日から持病の首のコリが悪化して首痛に。意識して首のストレッチをして今朝は少しよくなる。実は腰痛もあって、あちこちの故障が散発して疲れる昨今です。と言いながら、ミニ菜園の手入れとテニスと授業の準備で忙しい?

 『夏目漱石を江戸から読む』(小谷野敦、中公文庫)を興味深く読む。『こころ』の「わたし」と「先生」の関係ってむかし読んだ時からよく分かんなかった。「先生」が何か本を書いてそれを「わたし」が読んで知っているとかでないと、どうして私淑するのか分からない。「わたし」は鎌倉の海岸で「先生」が西洋人と海水浴しているところを見かけて、別な機会に話しかける。それはどうもボーイズ・ラブにも似ているようで。

 写真はマツモト・ヨーコさんの描いたカレンダー。2か月分が1枚で6枚あるのですが、7月と8月の分が一番好きです。朝顔の青が清々しい。

ジャンルの神話

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『「アメリカン・ニューシネマ」の神話』という1998年の本を読んでいます。これが家の中を何度も探してやっと見つけました。ないと覚悟して(たぶん捨てたんだろうな)アマゾンで見ると中古1点のみ。それも状態が「可」で読むには支障のないという、自分の本棚でのそのような状態ならOKだが、人手による結果ならあまり手にしたくないのでパスをして、それなしで準備を進めようかなと思いつつ、ふと見ると本棚なの端っこにありました。

 メインの書き手が遠山純生(『フィルム・ノワールの光と影』1999)と上島春彦(『レッドパージ・ハリウッド』2006)と骨太の映画評論家なので、やはり読み返しても読みごたえがありました。

 それとこれは結構知られていますが、「アメリカン・ニューシネマ」という批評用語というかジャンルを指し示す言葉は日本独自のもので、アメリカではNew Hollywood, The Hollywood Renaissance, American New Waveと名付けられたようです。そしてその定義やジャンルに入る映画も違ってきます。それを理解した上での、ある時代的な特徴と映画的な個性をどのように評価していくかが重要だと。

 それで本のタイトルにある「神話」という言葉で少し客観的に評価し、同時にジャンルといってもいい特徴もあるとしている訳です。簡単に言ってしまえばアンチ・ヒーローの登場する、ハッピー・エンディングならざるロックを映画音楽とする映画群。本当は個々の映画をきちんと評価すればいいのですが、学生に向けてある時代のあるジャンルの映画がアメリカのその時代の社会と文化と呼応している、その関係性について説明したいので。

 その前の50年代の繁栄と閉鎖性、そのあとの70年代のベトナム戦争後の内向世代的な時代についても。そう言えば1990年代にミニマリズムというアメリカ小説がはやりましたが、書き手は80年前後に書いて、翻訳がその少し後の80年代後半から90年代にかけて出始めたのでしょうね。この家族や友人・恋人の話が中心となる小説は、混乱が終わった後も少し社会とは距離を置きたいという傾向の文学的表現だと考えられます。

 いずれにしても大枠としては20世紀後半のアメリカ映画とアメリカ社会について説明できればと考えて、これから早朝テニスです。