風景の発見

. ベルク先生の『日本の風景・西欧の景観』を読んで触発されたテーマ「風景の発見」。

 50年前に大学生だったころ、「フランス語研究会」というクラブの顧問だったベルク先生のお宅(大学構内の教員宿舎)にお邪魔した。

 10年前に北大に講演に見えた時行こうかと思って果たせなかった。その時ジュンク堂のエスカレータですれ違って声をおかけしようとしてできなかった事についてこのブログで報告しました。

 ベルク先生のご本は筑摩文庫(分厚い)も書棚にあったはずだけど、見つけられない。今回の新書も難しい。訳もあまり・・・でもあきらめずに、順番も関係なくあちこち読むとだんだんと分かってきました。

 で自分も風景とか風景画に関心もあり書こうかと。それとブログにご無沙汰しているので、ここらで何か書かねばと。それで思いついた項目を整理しました。この後、ちょっとずつ書いていきます。

・風景の存在と発見

   風景とは当然のように人間がそれを見て認識しなくても存在する。しかしそれは自然として自然のままに存在するのであって、人はそれを他の全体としての自然の中から特定の「風景」として認識して切り取る訳だ。しかも人間に切り取られようが切り取られまいが、自然の中で変質したり消滅したりもする。さらに人間の文明/都市化によって強制的に変化させられたりもする。

・風景の発見と文化的アイデンティティ

 人間が自然の中のある風景をそれと認識する時に、その人間の生きる文化によって影響を受ける。人間の自然を風景として認識する視線にはその背後の文化的アイデンティティによって制限される。

・文化的アイデンティティと個人

 しかもそのような文化的アイデンティティを背負う個人は、その個人の資質や経験によって、同じ文化的アイデンティティを持つ他社と別な視線と認識を持つだろう。

・個人の肉体と視線

 視線は視覚だけでなく、その個人の肉体と脳にも影響を受ける。と言うか、視覚は肉体と脳と不可分または絶え間ない往復運動の結果でもあるか。(この辺、考えながら書いているので、どこかで整理します)

・風景はどう表現されるか

 風景は視線/認識の結果、文章や音楽絵画などで表現される。ここでは以下のように項目で用意された絵画で考察(以前か?)してみよう。

・風景画の位置づけ

 絵画の歴史は宗教画から始まり、歴史画、肖像画、そしてやっと風景画が出現する。と言うのは芸術は祭祀からはじまり、それは宗教画となり、国の歴史を描く道具となり、王侯貴族のプライドのための肖像画、そしてやっと芸術をして独立するジャンルとなる。でもこれも王侯貴族、富裕層の居室を飾る家具のようなものか。

 アメリカは独立して50年後くらいにヨーロッパの影響を脱した絵画を作り出す。「ハドソン・リバー派」はNYの近くのハドソン・リバー、キャッツキルの峡谷にアメリカ独自の「風景」を見出し描くようになる。

 しかしトマス・コールなど代表的な画家の絵は自然の中に佇む人をルミナリズム的な光を当てて、それはどこかしら宗教的な趣を出している。ヨーロッパを離れてピューリタンが作ろうとした「神の国」を啓示的に表現しようとした不思議な風景画です。まさに風景を発見して文化的アイデンティティによって表現したものだと。

・再び風景の発見

 上述のように自分で発見したと思う風景はすでに存在し発見されたものである事が殆どです。でもそれでいい。その事を知った上で、つまり文化的アイデンティティ+自分なりの見方をすればいいと。しかしそれを公表するのなら、何かしら新しい知見がないと意味がない。

 風景が自然の中で変化したりなくなるのは仕方がないけれど、人間の行為によって自然≒風景がなくなるのは許せないように思いますね。

しみじみ読むアメリカ文学

 

そんなタイトルの本がありました。2007年に平石貴樹先生が5人のアメリカ文学研究者を集めて、「しみじみ」をキーワードに翻訳短編集を出したのでした。そしてその中に一人に僕も。一人2編。一つは比較的知られている名作で、もう一編は自分が見つけた、または紹介したいあまり知られていない作品をと言う方針でした。

 さて今回は、『怪奇と幻想の英文学』というタイトルですが、しみじみと関係してきます。九州大学の大学院を出て、札幌の私大に就職し、数年前に京都の大学に移ったS藤さんという若い女性研究者から本が送られてきました。ヘンリー・ジェームズの研究者ですが、最近はアメリカの19世紀の後半のニューイングランドの女性作家、セアラ・オーン・ジュエットの作品について研究しているようです。。

 で今回の本の中で扱われているジュエットの代表作『とんがりモミの木の郷』のスピンオフ「外国人」、「レディ・フェリー」については読んだことがないのと「怪奇と幻想」もあまり得意なジャンルではないので。でそれをきっかけに『とんがりモミの木の郷』をじっくり再読して「しみじみ」だなぁと感心しました。

 それと女性作家の女性の登場人物への愛情が少し、人と人としての共感+女性と女性の感情(愛情と恋愛のボーダーというか)が描かれている事にあらためて気づきました。鈍いんですね。『とんがりモミの木の郷』の最後の短編「マーサの大事な人」のメイドのマーサと女主人パインの従妹のヘレナとの交流が暖かく、愛おしい。しみじみとして、少しだけセクシュアルで、これはレズビアンとまで行かなくても、ホモソーシアル、いやシスターフッド。でもやっぱりレズビアン的な愛かなと。

 それと階級的な隔たりも大きいと思いますね。ヘレナが自分の結婚式にマーサも連れてくるように手紙で書いてきたけれど、パインはその事をマーサに告げずに断る。『とんがりモミの木の郷』は「とんがりモミの木の郷」が分量的には半分以上、あとの短編は「シラサギ」が有名らしいけれど、僕は「シンシーおばさん」と「マーサの大事な人」がじんときました。

 ジュエットは19世紀後半、アメリカは東部、ニューイングランド地方の人々と生活について描いたLocal Color, Regionalismの作家と言われています。男性中心の物語/ロマンスとはことなる、静謐なるリアリズムとも言える作風で、日本への紹介は遅れていました。

 Local Color,は地方色で何となく意味するところは分かりますが、Regionalismの方は中央集権に対する地方独自の特徴を生かした発展のような政治的な意味に使われますが、文化的には地方色と重なる意味です。

 そして女流作家であるジュネットのリアリズムは、ニューイングランドの自然や風土を背景に家庭生活のコマかい観察と描写、家庭における人間関係が多い。それと階級の問題も。さらに男女の関係。そして女性同士の関係も。それがしみじみと、暖かく描かれていて、読後感がとてもいいです。

キッチンシンク・リアリズムとピカレスク

 1950年代から60年代にかけてのイギリスの労働者階級の生活を描いたリアリズムの小説、映画、TVドラマをキッチンシンク・リアリズムと言うらしい。同時代の演劇・小説・映画と「怒れる若者たち」と重なるような連動するような。キッチンシンク=台所=狭苦しい住宅やパブなどで不満を持ちながら暮らす人々。

 キッチンシンク・リアリズムという言葉や概念に関しては、1980年代のアメリカのダーティ・リアリズムに通ずるとところも。またさかのぼって20世紀初頭のNYの「アッシュカン派」の下町や労働者の日常風景を題材とした絵画の考え方にも。伝統的な絵画が取り上げなかった現代都市の生活のリアル(ゴミ箱や台所もふくめて)を描こうとした。

 写真はジョン・ブラットビーの比較的きれいな?な絵です。

 人々の中でも若者たちの不満は社会に対する抗議にまで至らない。イデオロギーや党派的な講義ではなく、不倫・姦通や窃盗などの道徳を壊す行動に終始する。それをピカレスク(悪漢小説)のピカロ(悪漢)と呼ぶ向きもあるけれど、どちらかというアンチ・ヒーローの方が合うような気もします。

シリトーを『土曜の夜と日曜の朝』から『ウィリアム・ポスターズの死』、『華麗なる門出』と読み継いでくると、アンチ・ヒーローから「ロード・ノベル」的な物語にもなっている。ただ『路上』のように探して旅するアメリカほど広くはないイギリスなので地方~ロンドンの往復、自分探しとまで行かない旅に。

『屑屋の娘』が面白い

  1950年代のイギリスの「怒れる若者たち」の一人、アラン・シリトー(1928‐2010)の短編集『屑屋の娘』 The Ragman’s Daughter (1963)のタイトル・ストーリー「屑屋の娘」が面白い。

  代表作の『長距離走者の孤独』(The Loneliness of the Long-Distance Runner 、1959)はトニ―・リチャードソン監督の『長距離走者の孤独』(1962年)について、映画雑誌(『映画の友』)のスティルで中学の時から知っていた。特に少年院の院長のために走らされる少年/青年?(トム・コートネー、25才)の痩せた疲れたような/憑かれたような表情が強く記憶に残っている。

  もう一つの代表作『土曜の夜と日曜の朝』 Saturday Night and Sunday Morning 、1958)もカルレ・ライス監督の1960年映画については、にやけた若者(アルバート・フィニー、24才)は印象が薄いかな。

  さて「屑屋の娘」は、労働者階級の失業中の青年トニーの窃盗(英語でpetty theft)を繰り返す、目的のない無軌道さと言うか。そしてトニーはドロシーと言う屑屋の娘と恋に陥る。Ragmanは屑屋から身を起こしてかなりの金持ちになっています。だから屑屋/金持ちという矛盾した、階級制度を壊すまで行かなくても、皮肉るような設定に思えます。

 ピカロ(悪漢)小説と言う解釈もあり、ま、それ風でもあるかな。でも悪漢と言うよりも不良。そして社会に対する抗議と言う風にならない。窃盗や泥棒を繰り返す若者と、彼が恋する女性(ドリス)も上昇志向の父親に共感しないで、「屑屋の娘」として失業中の青年と泥棒を繰り返すって言うのは、ニヒルと言う風に僕には思える。大に2次大戦後の若者(作家)が描く若者は、どこかアプレ・ゲールな雰囲気があるかな。

 信ずる何かを持たない若者の刹那的な無軌道。ちょっと苦いユーモアもあり。結末も悲劇的と言うよりも、ちょっと切なく苦い。魅力的な短編なので、どうして面白いのか考えてみました。どうも中途半端な考察だった・・・

追及の作法@I市のT市長の卒業証書問題

①卒業と卒業証書:卒業していない事は本人が知っている。したがって卒業証書は存在しない事も知っている。→ その上での卒業証書とは、友だちが同情して遊びで作った偽物か、偽の卒業証書を作る業者のものか、そのどちらか。

②(本物の)卒業証書は存在しないのだから、卒業証書をあるなら見せろという追及はあまり意味がない。本人が市会議長に何を何分見せたかはどうでもいい。でもやっぱりというか、19.20 秒と言う市長のレトリック(内容ではなく表現)がうまく利用されてしまいました。

つまり「ちら見せ」ではなく「ちゃんと見せた」という事をうまくメディアに使わせるように表現したT市長のつまらない勝ち。

どうして問題の本質を原理的にとらえて、それを言葉で表現できないのだろうか。不思議・・・

③卒業していないのに、しかもその事を本人は知っているのに、選挙の時に、または選挙後の市の広報に卒業と記載した事を追及すればいい。それは明らかに学歴詐称なのだから。

 本人が卒業したと思っていた可能性もないとは言えない。または卒業したかどうだかよくわからないんだという楽天的なぼんくらも世の中にはいる。それはそれでいい。けれど、そのような人はぼんくらな幸せな人生を送ってくれればいいので、市長になってはいけない。

④「除籍」について:これは所定の期間内に単位を取得しなかった場合と、授業料を納入しなかった場合の処分。多くの学生は中退と認識しているかもしれないが、除籍となって通知が来るはず。今回の事例では、最近になって除籍と知ったようだ。それはあり得る。一般的に卒業か中退かと言う認識で、除籍と言う措置・処分・概念を知らない可能性があるから。それでもと言うかさらに、卒業証書はありえない事になる。

 

結論:だから現在問題になっている事件について、市議会≒百条委員会(兵庫県で有名になった)の追求の仕方、そしてそれを報道するメディアの両方とも歯がゆい。卒業書を見せろとか、それは本物なのか、とかはどうでもいい。卒業していないので本物は存在しないのだから。

関係機関が③について追及し、その上で付随的に補完的に卒業証書について追及するのが合理的な順番だと思う。そして関係機関がそのような合理的な追及をしない場合は、報道機関がその点について指摘すればいい。

 

感想:ガザやウクライナなどの攻撃や紛争の被害者の報道や映像を見ていると、上記の問題など論ずる価値のない事例にも見えるけれど、気になって・・・

 

補遺:卒業証書と卒業証明書:

 卒業証書は、卒業時に授与される学校教育法上定められたもの。僕は失業式に出ませんでしたが、学部事務で貰えたと思います。手元にあるかどうかも定かではない。

 でも卒業したかどうかも分からない人もいるようですが、普通の会社や組織に勤めた事のない人でしょうかね。さらに地方とはいえ首長になる人がそうではまずいと思います。

 そして卒業証明書は、必要なら何度も出してもらえるもの。

 僕は大学を卒業して大学院に入り、修士課程2年のところ4年かかってよれよれで

終了しました。1年後、地元の私立大学に就職し、38年務めました。たぶん事務には何らなかの証明書を提出したものと思います。

ダロウェイ夫人と時間とセクシュアリティ

■『文學界』9月号の特集「『ダロウェイ夫人』なんかこわくない」に関連して、 「図書館だより」(北海学園大学、2013年12月)に書いたエッセイをアップしました。

■「『ダロウェイ夫人』なんかこわくない」についてはhttps://www.facebook.com/profile.php?id=100034631100406

 

 1923年ヴァージニア・ウルフはクラリッサ・ダロウェイを主人公とするThe Hoursという作品を執筆していた。2年後の1925年『ダロウェイ夫人』という題で発表されたこの小説は、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)と並ぶ英語圏におけるモダニズム文学の代表的作品として評価されるようになる。

 そして74年後の1999年に発表されたマイケル・カニンガムの『めぐりあう時間たち』( 原題 The Hours )は3つの時代のダロウェイ夫人を巡って物語が進行していく。1923年ロンドン郊外のリッチモンド、『ダロウェイ夫人』を執筆中の作家ヴァージニア・ウルフ。1949年ロサンゼルス、『ダロウェイ夫人』を読む主婦のローラ・ブラウン。そして現代のニューヨーク、「ダロウェイ夫人」と呼ばれる編集者クラリッサ・ヴォーン。
 このように先行作品に依拠する、メタ・フィクショナルな構成のポストモダン小説が1980年代からら90年代にかけて少なからず発表された。それは元の作品を換骨奪胎し全く新たな作品に仕上がる場合もあるし、先行作品にただ寄りかかっただけの作品もあった。しかしこのアメリカの男性作家カニンガムによる『めぐりあう時間たち』は1999年度のピューリッツアー賞とペン/フォークナー賞を受賞した作品であり、2002年映画化がなされたことからも、その評価は高いと言える。
 下敷きとなる『ダロウェイ夫人』において、時間と人間の意識を現代文学の重要なテーマと考えたウルフは物語を12時間という枠組みに限定し、その中で登場人物の意識が現在と過去を往復しながら一瞬一瞬の内に変化していく様子をとらえようとした。『めぐりあう時間たち』においても時間が重要なテーマであることはThe Hoursという原題からも明らかであるし、3人の女性の様々に生きる時間=人生が描かれる。
 狂気の兆しに怯えながら『ダロウェイ夫人』を書くウルフは、最初ダロウェイ夫人が自殺をするという結末を構想する。しかしダロウェイ夫人の分身ともいえる人物に自殺をさせることによってこの女主人公を生き延びさせるが、作家自身は1941年入水自殺を遂げることになる。

 ローラ・ブラウンは家族を愛しながらも、充たされない思いから自殺を願望するが果たせず、家族を捨てることで暖昧な日常にけりをつける。彼女にとって『ダロウェイ夫人』を読むことはもう一つの世界を生きることを意味し、そのことによって彼女自身の生を持続させる。ということは文学が作家と読者の人生において果たす意義がもう一つの鍵になるだろうか。同性の恋人サリーと暮らすクラリッサ・ヴォーンは、昔の恋人リチャードの病気とその死に際し、生きることの意味を見つめなおす。
 そして三つ目のキーはセクシュアリティ。元祖フェミニストとも呼ぶことのできるウルフにとっても性は重要なテーマであった。小説上ではクラリッサ・ダロウェイと女友達とのホモセクシュアノレな関係が示唆され、ウルフの実人生においてもその伝記的事実からホモセクシュアルな傾向は明白である。

 『めぐりあう時間たち』ではローラ・ブラウンはさりげなく、クラリッサ・ヴォーンははっきりと同様の志向を繰り返す。女性たちのセクシュアリティの問題に加えて、現代に生きる男性の性のテーマは詩人リチャードが罹っているエイズに凝縮される。カニンガムは1990年の『この世の果ての家』においてもホモセクシュアルエイズを重要なテーマに据えていた。現代では性のテーマがヘテロ・セクシュアル(異性愛)からホモセクシュアルへ、さらにはエイズの問題も抱え込んで限りなく錯綜していく。
 最後に未読の読者のために明言できないが、登場人物の隠されていた関係が結末において明らかにされ、3つの時代設定の意義がさらに明確になっていくことを付け加えておこう。

1か月ぶり

■ブログ再開

・約1か月ぶりのブログ。

・こちらの方が長さを考えずに書ける。

・ブログの趣旨として、心覚え/感想とちょっと考察的なものの中間としていた。

・しかしレスポンス/リアクションが少ないので物足りない。

■『リトル・シスター』から『ロング・グッドバイ』へ

 ・Little Sister(1949)からThe Long Goodbye(1953)を読み継いで。

 ・『リトル・シスター』は登場人物が多く、プロットも複雑で整理できていない。

 ・でもマーロウの探偵としてのゆらぎなど、メタ・ミステリー的な部分も。

 ・その後でThe Long Goodbyeを再読すると、やっぱりマーローの古典だと納得しました。

■The Long Goodbyeの愛され方

The Long Goodbye(1953年)はチャンドラーフィリップ・マーロウものの第6作。

・翻訳は『長いお別れ』~『ロング・グッドバイ』~『長い別れ』(写真)~『ザ・ロング・グッドバイ』と、タイトルも変遷しつつ、やはり愛されているのだなと。

■逡巡する作家と探偵

・作者のチャンドラーが、文学志望だったのでハードボイル探偵小説にしては、謎よりも行動のハードボイルド探偵にしては、思索や観察が多い。

ヘミングウェイダシール・ハメットよりは、探偵って何だろうとか、彼は/彼女は果たして依頼人だろうか、とか。

■実存的マーロウ

・その結果、マーロウは探偵とか、事件とか、依頼人とかについて考察する探偵になる。

・事件は奈辺にありや。

・のちの実存主義ポストモダニズムを先取りするような探偵。

・だから、好きなのかも知れない。