仲秋の名月でした

 昨日は取得したマイナンバー・カードを区役所で受け取るかみさんに付き合った後に、近くのGagnon(ギャニオン)でメープル・シロップのドレッシング、サブレ、アップル・パイ、ソフト・クリームを買う。

 食事は1年ぶりに地下鉄琴似駅そばのユニベールSで。鯛のカルパッチョで白ワイン。これがグラスで●●●円。普通のグラスワイン(1000円前後)の倍近い。少し(だいぶ)高いですねとご主人に言うと、安いワインを出すことはできないような事を言っていました。でもボトル8600円のワインをグラスで●●●円とは・・・

 でもパスタやハンバーグは美味しい。帰って食べログを見るとけっこう高評価。確かに美味しいし、店主の感じも悪くない。でも高い・・・

 帰りはバスから降りて、発寒川の河原を歩く。ちょうど仲秋の名月が大きな空にくっきりと。家に帰っても2階の窓からくっきりとお月様が見える。気が付いたのは月の周りに雲一つないにもつまらない事だった。周りに雲が少しだけ距離をおいてかかっていると絵になる。また雲自体が格好のいい雲でした。

 そう言えば午後、中学の同級生のT君から電話。来年の春に茅ケ崎のY君の店にみんなで行くための実行委員会を開こうという提案。打ち合わせという名の飲み会の誘いのような。

 写真は鯛のカルパッチョ。きれいな月はスマホのカメラではとらえられませんでした。ちゃんとしたカメラなら撮れたかも。でも肉眼と言うか、人間の目の機能/能力ってすごいですね。

対比論の有効性/誤謬

 う〜ん、また難しい問題だが、前回途中で終わってしまったし。言葉の伝達性とそれに対する疑問って、実用性と哲学の問題にもなる。僕としては、どちらかではなく、どちらもと言う、またポストモダンの含合性の考え方になるんですね。つまり、どちらもあり。
 はい、テクストは朝日の朝刊の折々の言葉。若い時に傾倒した詩「われら新鮮な旅人」(1965)の長田弘

――言葉は伝えたい事を伝えるのではなく、語ろうにもどうしてもそこに残ってしまうものを探り出し、象るものだ――

「象る」は「かたどる」と読むらしい。「言葉は伝えたい事を伝える」ものでしょうって、突っ込みたくなりますが。ここでは言葉で伝えきれないものの事を言いたいのだと分かります。
 コントラストは言いたい事を強調するためのレトリックなんですが、そのために片方を切り捨てる事についての違和感なのでしょうね。厳密には間違っている。コントラストは、レトリックとしては有効だけれど・・・思考の整理の段階ではいいのですが、結論としては避けた方がいいかな。

 昨日の学会のアルバイト学生への説明会はうまくいった(らしい)。天気が悪かったけれど、出席率はよかった。でも変更が多い。4年生が卒論の進行状況でキャンセルしてくる。すると関係ファイルの訂正が増える。その複数のファイルの整合性に齟齬が出てくるんですね。ま、それも仕方がない。4人で相互にチェックすれば何とかなります。この支部執行部の仲間がいい人たちで、気持ちよく仕事ができる。

 写真は2001年NYのマンハッタンはブライアント公園です。ミッドタウン、グランド・セントラル駅の近くにある市立図書館の隣にあります。ゥィリアム・カレン・ブライアントという詩人の名前から。1990年代前半までは麻薬の密売などで危険でしたが、検事出身のジリアーニ市長になってから治安がよくなりました。夕方、チェスをやっていたり、小さなライブがあったり、いい雰囲気でした。MOMAと公園の中間のアパートに住んでいたので、歩いて7分位か。よく行きました。コーヒーやビールを飲む事も出来ます。写真の奥が東向きになるのかな。

学生アルバイトの説明会

 来月21日(土)・22日(日)に江別の札幌学院大学で開催される日本アメリカ文学会の第62回全国大会の準備をしています。執行部(支部長、事務局長、幹事2名)の4名体制で。

 僕は現役3名の中の唯一退職者。幹事の末席です。本当は執行部にいるような年令ではないのですが、そこは地方の弱小支部。年寄りも使われます。と言うか喜んで参加させてもらっています。

 実は北海道支部が全国大会を担当した前回2014年と前々回2005年は会場が北海学園大学でした。僕が担当。前々回は事務局。前回は支部長で、開催校。その経験を買われて?の再登場と言うか。

 で今日は17名の学生アルバイトの説明会。すべて札学の学生なので、説明は会場校のO先生にお任せしました。雨なので出席が心配。心配と言えば、土曜日の夜に開催される懇親会。前回は160名くらいでした。今回はまだ参加の葉書が少ない。コロナの後なので出足が鈍いのか。心配は絶えません。

 でも実はこの学会活動が退職者の社会との関わりの重要な部分です。あとはテニス。ここでもテニス以外の交流(世間話、焼肉会、納会など)はテニスと同じくらい大事かも。

 写真は昨日ミニ・リンゴの苗を頂いたコーヒー屋さんの店頭。秋の気配のする細い木です。

オランダのミニ・リンゴ

今日も午前中テニス。とちゅうネットの向こうの対戦相手にボールをぶつけてしまった。

 昼は奥さんと近所のラーメン屋でラーメン+炒飯セット+ビール。1時過ぎにはテレビの取材の人が来ていました。奥さんはとっても美味しい味噌ラーメンだと言っていました。僕はまぁまぁ。

 食後は散歩。いつもコーヒー(粉、グアテマラ)を買うSコーヒーでアイス・カフェオレを飲みました。

 その店は入り口に植栽(鉢など)を置いて気持ちがいいです。写真の植物について奥さんに聞くと、取り寄せたミニ・リンゴだと言う。どこからと聞くと、オランダ?から。かわいらしい実は食べられない。鳥がつつきに来るそうです。いいですねと言うと、苗があるのであげると。有難くいただいて、庭に植えるつもりです。

 ラーメン屋さんのご夫婦も、コーヒー屋さんのご夫婦もいい人たちで気持ちがよかった。

さまざまな「檻」

 ・「檻」についてのきっかけは北方謙三の『檻』(1983年)。あまり得意でない作家の文庫本が20~30冊が本棚にあってそのうち数冊を再読しました。そして『檻』は少し僕の琴線にふれました。偉そうですが。あまり男臭さを前面に出し過ぎない。そして人間の「檻」の意味を考えさせる意味でも。日本冒険小説協会の大賞を受賞したそうな。

・「檻」と言えば、このブログでも4月に「勤勉の美徳と「檻」」と題して書きました。この場合は勤勉に働いても他者に搾取される「檻」にとらわれているようなものだとの指摘。

・3年前の支部大会(Zoomでした)で取り上げられたヘンリー・ジェームズの『檻の中』。郵便局の女性電信技士(いたんですね)が裕福な客の電報のメッセージから想像/妄想するちょっとシュールな不条理も入った中編でした。「檻」は主人公の働いているブースでもあり、彼女の中産階級のその上を志向する精神というかモラル。最後はそこから脱出する。それをデゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で「愛を壊して愛を知ること」という風に絶妙なレトリックで表現しています。

 ・Zoomの支部大会の前の年2019年はコロナの前で、退職の翌年。いろんな事が起きた年でした。痛風、詐欺にあう、墓を立て直す、親友の死、などなど。その中でリニューアルした円山動物園に久しぶりに行って、やっぱり「檻」に入れられた動物を見るのはあまり好きでないなぁと再確認した次第です。大博覧会やオリンピックと同様に、もう時代遅れのコンセプト/入れ物/施設だと。

 で最後に。自分にとって「檻」とは自分の意識と肉体だと思います。自由になりそうでならない。そこから出られない。そんな事を考えながらイタリアのジャズ・ピアニスト、ステファーノ・ボラーニのFalando De Amorを聞いています。2003年のジョビン曲集。タイトルも「愛の語らい」というアントニオ・カルロス・ジョビンの曲です。

 写真は日曜日にテニス・コートに中学生が持ってきたスズメバチの巣。この少年は小学生の時から来ていますが、成長が早くて今はもう僕らがかなわないテニスのレベル。虫博士というよりハチに特化して関心があるようです。ハチの巣はコート・マスター(管理人)のK田さんの手で翌日、ハチの炒め物?に代わって。食べた人はアーモンドみたいえ香ばしいと言っていました、僕は・・・でも蜂の巣も一種の「檻」?

「対比の論理」への違和感

下の2つのコメントを読んでみて下さい。

・「古くならぬことが新しいのじゃないのですかね」。昭和の映画監督、小津安二郎の名言を思い出した。

 (「天声人語」)

・「大学は、顕微鏡や望遠鏡で世界を覗いて研究する方法は教えても、自分の目で見る方法は教えません。」ヘンリー・D・ソロ― (「折々の言葉」)

 

 いずれも今朝の朝日の朝刊です。よく入試の国語の問題にも取り上げられると言う「天声人語」。著名な哲学者のコラム。啓発される事も多いですが、時々?と思う事も。

 でタイトルは何かを言おうとするときに対比の論理で語る事が多いことへの違和感について。今年は小津安二郎の生誕120年でけっこう催しがあり札幌の北海道文学館でもありました。行こうと思いつつ、予約制でもあっていけませんでした。件の言葉は、松竹の重鎮監督であった小津が若い監督に「もう古い」と批判された時に行った発言のように思います。

 それにしても「新しい」事がいいと認める言葉である事を小津は認識していたのでしょうか。僕としては「古い」と言われた時にちょっとたじろいでも、「新しい」事がそれほどいいのだろうかと考えるような気がします。「古くても」いいものはいいと思えないだろうか。

 「新しくていいものはいい」と「古くてもいいものいい」。「新しくてもよくないものはよくない」と「古くてよくないものはよくない」。つまりポイントは「いいか悪いか」で、「新しいか古いか」ではない。もっと厳しく言えば「いいか悪いか」の定義や、その問い自体も考えなければいけないのですが。

 実は小津さんも昭和の初期、1930年代は若き監督としてアメリカ映画の影響を受けたモダニズム的な新しい?映画を作っていたのでした。それは映画の初期の実験で「新しくていい」試みだったと思います。

 写真はモダニストで多彩な才能の持ち主だった小津監督の書いた絵です。

 1番目が長くなったので、2番目のソローの言葉については次項で。

My Back Pages

 このディランの曲で最初に思い出すのはキース・ジャレットSomewhere Before(1969)の1曲目に演奏されるカバーだ。1970年代の前半にジャズ喫茶や行きつけの飲み屋(エルフィンランド)でよくかかっていた。ベースのチャーリー・ヘイデンのイントロに導かれるように始まるキースのソロ。メロディーからアドリブへの流れはフォーキッシュ(フォーク・ソング的)でもあり、ゴスペルのようでもある。

 その後にオリジナルのディランのMy Back Pagesを聞く。Another Side of Bob Dylan(1964)に入っているオリジナルは、その声も歌い方も好きになれなかった。でも今では違って聞こえるのはなぜだろうか。

 10年くらい前に授業でも使おうかなと思い、訳と解釈を試みました。でも現代詩のように難解でした。とは言え、キーになる言葉の使い方、表現方法/レトリックを理解すれば、大丈夫だとも分かりました。

 淡々としたギターの弾き語りは、ユダヤ人のラップでもあるかなと。ユダヤ人というのは、学術・芸術だけではなく、けっこう芸能的な関心と才能もあるんですね。ラップも口承によるユダヤの物語の継承もあるようですし。ユダヤ教シナゴーグに勉強のために住み込んだアメリカ研究の仲間は、教義の解釈についての議論が語るように歌うように続けられる風景にについて語っていた記憶があります。

 このディランのラップ的弾き語りは日本のフォークにも影響を与えた。吉田拓郎泉谷しげる遠藤賢司など。この語る≒ラップという歌い方は、歌詞のメッセージ性とも関係するような気がします。メロディよりも内容を訴えたいと言うか。でも元々歌って、語り~歌へとなっていったので、歌~語りって先祖返りというか、メロディよりもメッセージが先だったんです。

 My Back Pagesの内容は23才のディランが21才の自分を振りかえって”Ah, but I was so much older then, I'm younger than that now”(ああ、だが私はとても年老いていた。そして今、私はあの頃よりずっと若い)」と歌う時、21才の自分は”old”、つまり「頭が固かった」、そして今はずっと”young”つまり「柔軟な」考えなんだと過去を相対化しているように見えます。

 でも23の若造が2年前の自分を批判しても何だかなぁとも思いますね。それを知らないまま、今(60代から70代)になって、若い時の事を回顧しているように、自分に合わせて解釈すればいい。

 最後にback pageは「裏の頁、最後の方の頁」で転じて新聞などの「重要度の低い記事」を指すので、大上段に表明するマニフェスト(宣言)ではなく、そっとつぶやく独り言≒本音のようなものだと。その割には理屈っぽく文学的でもあるので、のちにノーベル文学賞を受賞する萌芽はあるのかなとも。

 上の写真はSomewhere Before。「むかし、どこかで」というタイトルとジャケット写真によってイメージされるように懐かしい。曲の解釈もそうでした。つまり”Ah, but I was so much older then, I'm younger than that now”というメッセージよりも、ノスタルジックなメロディを生かした演奏と呼応すようなセピア色のジャケット。