V・S・ナイポール『ビズワス氏のための家』

■紹介
V・S・ナイポールというイギリスの作家がいます。

1932年生まれ、 旧イギリス領の西インド諸島トリニダード島のインド人の家に生まれれる。

2001年ノーベル文学賞、  2018年没。偉大な作家なのに一般的な知名度は高くないかな。

今回、元同僚の森川慎也氏の訳で『ビズワス氏のための家』(A House for Mr Biswas、1961))が幻戯書房から刊行されました。

昨年の12月に森川さんと飲んだ時に翻訳の事が話題になりました。

500頁上下巻、各5200円。

■「家」の物語

 父親を早くなくし、子供の時から他人の家をたらいまわしにされてきたビズワスは看板書き、農園の監督を経て、新聞記者になる。結婚して妻の大家族の家に住み、最後に自分の家を持つけれど、それは欠陥住宅だった。 家が他者のものであり続けて、家族もまたそのような位置づけになる。やっと自分の家≒人生を持つがそれも失敗に終わる。

■ディスポラ、ポスト・コロニアル
 ユニークな解説もいい。 トラジ・コメディとでも言うのか、コミカルな語り口で、家への執着(妄執?)が描かれていて。
  コロンブスが間違ってインドと思い込んだアメリカのカリブ海西インド諸島に本物?のインド人が移り住むという皮肉。
 ディアスポラをポスト・コロニアルな視点から読み解いてもいい。
 また現代のディアスポラを生きる人々のアイデンティティの問題としても。
 さらにアイデンティティ自体がポストモダンの時代では複合的な重層的なものであるとするのがデフォルトかもしれない。
 大家族の賑やかな、鬱陶しい生活を繰り広げる。妻の夫であるビズワスの居心地の悪さは、世界の中に自分の居場所を見つけられない者の象徴かつ表象でもある。
■言葉:読む事、書く事
 ヒンドゥ教の伝統を守る妻の家族と、アーリア主義というカースト制度廃止や女性の教育をすすめるなど革新的な考えのビズワスとの軋轢や葛藤。
 それと読む事と書く事(新聞記者として)に拘るビズワスの態度も重要。これは作家であるナイポールとその父親の伝記的事実とも関連する。と言うか、ビズワスが享年46才であること、ジャーナリストだった事など、作家の父親が主人公のモデル。
 トリニダードの クレオール語や ヒンディー語訛りの英語の翻訳は相当難しかっただろう。トゥルシー家のハリーの大阪弁訳も効果的。訳者の森川さんは関西の播磨出身。
 アメリカ文学の黒人の言葉を東北弁で訳した時代もありました。
■父と息子の物語
 ビズワスを助けようとして溺死した父。その後困窮して他人の家に住むようになる。結婚してできた息子のアナンドともうまく行かない。しかし実際のナイポールは、イギリス留学中にジャーナリストの父とたくさんの手紙を交わし、46歳でなくなった父の作品を23年後に出版します。
■師と弟子の物語
 ついでに?書棚にある『ミゲル・ストリート』の後ろを見ると、訳者である森川さんの東大大学院の指導教員でもある斎藤兆次先生が『ある放浪者の半生』と『イスラム再訪』を訳していらっしゃる。それもナイポールへの関心と関係があるのでしょう。『ある放浪者の半生』はさっそくアマゾンで注文しました。
■音階の物語
  作中で出てくる、ヒンドゥ教の「ラーマーヤナ」って、動画で確かめると日本の民謡と節、こぶし回しが似ている。民謡が仏教の声明の影響を受け、その声明の元はサンスクリット語の賛歌らしい。
 日本の歌の特徴とも言われる「ヨナ抜き」。「ヨナ」とは「ヒフミヨイツムナナヤココノトワ」の4番目と7番目。西洋音階の「ドレミファソラシド」ではファとシが抜ける。別に西洋音階を基準にしなくてもいいのですが、つい・・・
 これが日本の歌の特徴とも言われているのですが、その元が仏教の声明、そしてその前にヒンドゥ教の「ラーマーヤナ」=サンスクリット語の賛歌があったという。インドの歌付きの舞踊を見ていろいろつながっているのだなという不思議な印象をもちました。
 

漱石~オースティン~ハイスミス

■いつも漱石に戻っています。

■次に最近はジェイン・オースティン。これは映像もあるし、いろんな議論もあって。

■そしてまたパトリシア・ハイスミス。

・たまたまNetflixのRipleyも観ました。

・これはずいぶんと地味なトム・リプリー。

・ディッキー・グリーンリーフもモーリス・ロネよりも地味。

・でもみた事があると思ったら、オースティンの『EMMAエマ』(2020年)でジョージ・ナイトリーを演じていました。

・マージはあの子役だったダコタ・ファニング。個性的な女優と言えるかな。

・そしてディッキーの次に殺されるフレディ役が、何か男性のはずが女性のようにも見えて。演じていたのはあのスティングの娘でした。彼女はトランスジェンダーのような。

・チャーミングでした。でも「娘」とか「彼女」と言ってはいけないのかな。

・名前もEliot Sumner。

・『太陽がいっぱい』から『贋作』へと読み進んでいます。何回目か。でも面白い。

再開のような

 フェイスブックにシフトしたのと、体調その他で3か月近くご無沙汰を。

 このブログの方が思ったことをたっぷり?書けるのですが。

 8月初めにデスクトップが故障をして、ハードディスを入れ替えたりしたのですが、2014年に買ったのですでに12年。知り合いの業者さんに5,6年で替えますけどとも言われました。

 その後、8月末に動かなくなって、10インチのノートPCを使いながら、今度はデスクトップではなくて、16インチのノートにしようと決心して、また3週間くらいたってしまった。

 机の上がすごく広く感じます。

 今度は連休あけに、半年も待っていた(本当はひきのばしていた)検査入院の連絡もあったり。

 何か気分の落ち着かない春と夏でした。

 

ジェラルディン・ジェ―ムズと言う女優

■『赤毛のアン』

・カナダの『赤毛のアン』のテレビ化『アンという名の少女 』(Anne with an E , 2017-2019)を見ていました。

・そこでアンを養子とするカスバート夫人を演じたのが、ジェラルディン・ジェ―ムズ。

・少し頼りない兄のマシューと比べると毅然としたカスバート夫人。

・この物語は少女の成長だけなく、カスバート夫人の長老会派的な厳しさ一辺倒から余裕を持った優しさへの変貌も大きい。

 

■『ダウントン・アビー』 Downton Abbey 

・2019年の劇場版にジョージ5世の王妃メアリーとして登場。

・これまた毅然として、しかも悠然と優しさもありピッタリ。

・ジョージ5世は現在のイギリス王室の姓である「ウィンザー家」の初代君主。

・映画『英国王のスピーチ』の主人公となったジョージ6世はジョージ5世の次男。

・前女王エリザベス2世の祖父。

 

■またジェイン・オースティン

・オースティン原作の『ノーサンガー・アベイ』(Northanger Abbey、2007年)。

・原作者であるジェーン・オースティンの「声」をナレータとして演じた。

 

■『ファクトリー・ウーマン』にも

・ Made in Dagenham という原題の2010年の映画にも。

・ロンドン東部のダゲナムという町のフォード自動車工場で労働争議。

・またもオースティンの『説得』で主役をする事になるサリー・ホーキンズが主役。

・ジェラルディンはコニー役、ビリング4番目で、サリーたちを支えるベテラン組合員。

ハイスミスの再読

 オースティンを数か月読んで、観て、AIと対話をして。

 今度は『キャロル』(1952、僕の生まれた年)も再読して、よかった映画よりもずっと良かったと再確認しました。

 1952年当時は、クレア・モーガン名義でPrice of Saltという題名で出して、その方面?の人たちを中心に随分と読まれたそうです。レズビアンのカップルがハッピーエンドを迎えると言うのも当時の常識と違ったと言う時代でした。

 主人公のテレーズ19才が年上のキャロルに憧れて付き合うようになり、仕事もデパートの売り子のバイトから舞台美術の仕事も少しづつ。キャロルは離婚係争中。それもテレーズとの旅の最中に夫が雇った私立探偵に盗聴されたり。テレーズがキャロルの家に残して来たラブレターを見つけられたり。

 映画はカップルの恋愛を美しく撮る事で現在(2015年)の同性愛/レズビアン/クイアな関係も肯定できるような時代の映像表現となっている。

 で原作を読み直すと、テレーズの葛藤が詳しく描かれていて共感できます。ボーイフレンドのリチャードの関係、それ以外の男性の友だち、舞台美術の助手のような仕事から始めるキャリアの蓄積が少しづつ。

 そんな風に、社会の異性愛の男性支配のルールに抵抗しつつ、自分の生き方を自分で見つけようとする主人公に応援したくなります。キャロルの元恋人で今は友だちのアビーが、最初はテレーズの嫉妬?の対象となり、次第にテレーズに生き方のメンター的な役割を演じて興味深いです。

 最後は離婚したキャロルから同居/同棲を申し出られるけれど、内心喜びながら断ります。でもある女優のパーティで、その女優からちょっと誘われるような事もあり。そのパーティの会場からキャロルのいる場所に赴く。キャロルを見た時の喜びが、それまでのテレーズの葛藤な悩みや成長に寄り添ってきた_読者にとっても共感できます。

 そんあ文学の紆余曲折が。つまり2時間の映画のように直線的には進まない。行きつ戻りつ。横道に逸れたり、立ち止まったり。これってポストモダンだと思ったり、それって現実的でリアルなんだと思ったり。とても充実した読書体験でした。

 ハイスミスについては、2021年の生誕100年の時に勝手に特集を2回くらいのこのブログでやっています。『キャロル』については、2017年の学部の行事でと、最終講義も似たような事をやっていました。好きなんですね。

 写真のペーパーバックは2017年に買って(アマゾンに購入記録アリ)いたのですが、本棚に見つからず、買い直しました。2000円ちょっと。

 今は『太陽がいっぱい』~『贋作』~『死者と踊るリプリー』~『アメリカの友人』と読み進んでいます。

大学のクラス会

■大学のクラス会って?

・北大は最初の2年間教養部で、2年の後半からは学部に移行しています。

・だから2年の後半は、学部の勉強が中心で、教養の授業も少し。

■教養のクラス

・1年生は、今では基礎ゼミとか大学の学びの方法や各種情報の連絡のための場があります。

・50年前の大学では第2外国語のクラス(50名くらい)に顧問がつきました。

・最初のコンパも顧問の先生が仕切ってくれて。

■クラスの付き合い

・ま、2年の後半以降は付き合いはほぼなくなる。

・うちのクラスは顧問の先生が、2年の夏休みに大学の支笏寮で宿泊コンパをやってくれました。

・それもあってか、50年の付き合いに。

■特別な因縁?

・実は3つ上の兄が同じ教養のクラス顧問の先生でした。

・しかも学生運動が華やかしい?頃で、兄が捕まって?先生にお世話になったんです。

・そんなで両親とも面識のある先生が僕のクラスでも顧問に。

■クラスの付き合い

・でも学部移行すると、学部の付き合いが中心となる事が多い。

・そんな中で、教養クラスの付き合いも続いて50年。

■50年も

・2012年に入学40年の催しを北大構内のエンレイ荘で。

・2018年の地震の後に札幌ビール園での集まりが先生主席の最後か。

・2019年に旧友がなくなった時には先生も告別式に来てくれました。

■最近は

・昨年は東京在住の旧友が連絡をくれたので6人で集まりました。

・今年は10名が集合。

『ダロウェイ夫人』〜『キャロル』〜『文学部唯野教授』

■『キャロル』について

・テクスト・クリティックをしていると、1950年代の社会が認めないレズビアニズムの幸せな結末が事の他、心に響いた。

Therese smiled. It was carol she loved, and would always love Carol seemed to stare incredulously a moment, the slow smile growing
(テレーズは微笑んだ。テレーズが愛している、いつまでも愛し続けるキャロルだった。キャロルは一瞬、信じられないようにテレーズを見つめたが、やがてその顔にゆっくりと笑みが広がっていった。)

■『ダロウェィ夫人』のラスト

このエンディングが、1920年代のモダニズムの傑作『ダロウェィ夫人』のラストを連想させたんです。これは夫のダロウェィ上院議員のためのパーティの一夜の終わりに、ダロウェィ夫人を愛していたピーターが感じる興奮の描写とよく似ていました。どうでしょうか。

“I will come,” said Peter. What is this ecstasy? he thought to himself. What is it that fills me with extraordinary excitement? It is Clarissa, he said. For there she was.

(「僕も行くよ」とピーターは言った。この恍惚感は何なんだろう?彼は心中で思った。僕を異様な興奮でみたしているのは何なんだろう?クラリッサだ、と彼は言った。そこに彼女がいたのだった。)

■『学部文唯野教授』のラスト

そしてこの美しい結末を半世紀以上たって、日本の作家がオマージュ的に引用します。これは筒井康隆さんが書いた『学部文唯野教授』についてのメタ的なエッセイで書いていました。

黙ってサインし続ける唯野の胸には次第に幸福感が湧きあがってきた。・・・いったいなぜだろう。・・・こんなに幸福であっていいのだろうか。・・・唯野は視線をあげた。榎本美奈子が立っていた。

■ 『ダロウェイ夫人』〜『キャロル』〜『文学部唯野教授』にいたる、幸せな結末のインターテクスチュアルな例として講演に使おうと思っています。