ファーブルと母の事

 生誕200年とかで、朝刊の「天声人語」にファーブルの事が書かれていました。その『昆虫記』を訳した大杉栄に関しても今年が没後100年。関東大震災の時に憲兵隊に殺されたんです。

 さてファーブルにはあまり知られていないけれど『植物記』もあります。本棚にあるのは、1984年頃に母に誕生日のプレゼントにほしいと言われて買った記憶があります。今の僕くらいの年でした。大正4年生まれの元教師の母は読書家でした。近所の人もお母さんはいつも本を読んでいましたねと言われますが。外からも居間が見えたのかな。

 明治35年に北海道で初めての女子中等教育(中学・高校)の公立女学校として札幌に創設された庁立女学校に稚内の高等小学校を終えて進学します。それと同じ時期に祖父も札幌に出てきたようです。稚内では馬具商を営んでいたような。鳥取出身の祖父は稚内に住み、士別や名寄、旭川に親類がいたので、一族とは言わないまでも、それなりに親族がまとまって移住してきたようです。

 お祖父ちゃんは僕が1才の時に亡くなったので記憶にありません、残念ですけれど。ついでにお祖母ちゃんはもっと前に亡くなっていたようです。山形にいる父方の祖父母とも会った事がありません。祖父母に縁の薄い孫だったんですね。

 子どもの多い山形の農家から養子にでたので、あまり実家に子供を見せに帰る事もなかったようです。でも中学の頃に父に連れられて酒田市郊外の余目(あまるめ)の池田家(父の実家)に行きました。海や川で泳いだりして楽しい思い出になりました。その後、豊平や西野に従妹が泊まりに来たりして。

  母は庁立女学校を卒業後は稚内に戻り教鞭をとっていた事もあります。写真はその頃。戦前かな。生徒が54名もいるので1クラスと言うよりも1学年全部か。左端の女性が母です。けっこう大柄だったのかも。兄は父に似て、僕は母に似ているようです。おでことか足が太い?とか・・・

  うちは兄と僕の二人兄弟で、あまり母や父の事を聞こうとしなかった。関心がないのではなく、娘たちの様に親の事を聞いたりできない。その点、このブログでも何回か書いているように女性の方がコミュニケーション能力は高いので、両親の事などは聞き出している可能性は高いでしょうね。

 それと母は本城家の一人娘で父を婿養子に迎えたので、母本人の兄弟/姉妹はいない。山形の父の実家ともそれほどつながりがない。つまり両親の事を聞き出す?親戚も少ないのですね。だからでしょうけれど、友だちをとても大事にする人でした。

  今になってもっと聞いておけばよかったと後悔するバカ息子(自分の事)です。年を取るにつれて、今は会えない母の事を思い出します。『今を生きる』でThe Road Not Taken(選ばなかった道)について書きましたが、年を取った母への対応(選んだ道)は本当に間違っていたと、反省する事しきりです。