家の履歴書

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 昨日の午後はグランド・ホテルの1階で支部の役員の人たちと来年度の予定と支部長交代の話し合い。後者についてはペンディング。僕は既に4期8年支部長でいたので交代したい。候補者はいるのですが、なかなか引き受けてくれない。

 標題は週刊『文春』のコラムから。

 中学まで豊平にいました。豊平4条6丁目。土地はあったけれどお金がなかった記憶が。理由は敷地内にアパートを作ったり、小学校時代は下宿をしていましたから。今では少ないけれど、食事つきの貸し部屋で、母は一家4人+4人くらいの食事の支度をしていて、僕も時々手伝ったり。下宿をしていたお兄さんの実家(室蘭)に連れて行ってもらったり、小学生は可愛がられた。家に帰ったらテレビがあったような。これは小学校1年生か。

 道路から引っ込んでいて玄関で餅つきをしたので広かったような1階建て。小さい時は茶の間に勉強机を、小学校高学年からは縁側の端に、そして中学の時に4畳半の個室をもらいました。庭もあったし、物置3つ(一つは石炭小屋兼用)で、敷地内で近所の仲間とかくれんぼもしました。道路に面してはM畳屋さんがあって、子供もそこでも遊びました。近所にはもう1軒、いや2軒畳屋さんがあって需要があったんですね。床屋も2軒。銭湯1軒。ここは小学校の友だちで、遊びに泊まりに行きました。銭湯のせいで2階が暖かい。庭には燃料の木材が。貸本屋さんも3軒あり、雑貨屋や自転車屋さん。味噌と醤油を売っているお店はKさんと言って、後からアメリカ文学会の支部長になったK先生はそこの親戚のようで、同期生の女子KさんとK先生が少し面立ちが似ています。

 高校進学の時に何か事情があって西野に引っ越しました。う~ん、父の女性関係?か借金か。220坪の土地を売っても、西野で新築の家でしたが、土地は借地。これが昭和42年(1955)で、1991年に母とお金を出し合って買いました。。豊平は250~280坪くらいあったのでは。というのは途中でお隣に土地を売ったようでした。これは母方のおじいちゃんが持っていたみたいですが、婿である父の仕事がうまく行かず切り売りしたようです。

 さて西野5条3丁目は農家の大家さんの借地で50坪区画を2つ借りて、自宅とアパートをつなげてつくりました。平成19年(2007)までいましたから、家族で僕が1番長くいた事に。兄は大学生の時と25歳で結婚する6~7年。父は54才から脳梗塞で倒れる67歳までの13年間、母は52才から79才までの27年間。そして僕は高校1年から55才までの40年間いました。2階は兄と僕の6畳間と廊下で、1991には改造して14畳一間の書斎に。

 母が1994年に亡くなり、1996年に結婚してすぐ1年の在外研修から戻って1997年からかみさんと住むようになりました。その後西野5条3丁目(西野二股)の家の前の道路(屯田通り)が道路拡張でトラックの往来が激しくなり、買った土地に家を建て直すよりも、そこを売ってよその土地で立て直す方がいいという事で、かみさんと市内のあちこちを捜しました。でも郊外で便利が良くて、緑と川がある西野4条1丁目に空き地を見つけて買いました。地元にしたのは良かったんですが、そこは空き地ではあっても売地ではなかったので、不動産屋の入れ知恵かそれが常識なのか、売り主に地価よりも吹っ掛けられました。でもその前に10年ほど使っていたテニス・コートのすぐそばなので良すぎた。テニスをしたくない/できない時でも仲間から誘われます(苦笑)。発寒河川公園のいくつかある入り口のひとつのすぐそばに家を建てて12年。夏も冬も緑や雪景色が素敵です。桜並木もあり、紅葉もきれい。220坪から100坪、そして今は84坪なのでちょっとずつ小さくなりましたが、二人で十分の広さなので満足しています。

 家を出ていたのは、1983年にアメリカの語学研修とイギリスとパリに旅行で2ヶ月、11989年にカナダの大学で交換教授としてレスブリッジ(アルバータ州)に4カ月、結婚して1996年フィラデルフィアに8か月、続けて1997年ロンドンに4カ月、2001年ニューヨークに半年、最後はブロック大学(カナダのオンタリオ州)に引率で3週間。これが最後でパスポートは2年前に退職した時にあちこちに行けるかなと取り直したのですが、使わずしまい。海外滞在は合計2年にも満たないので、65年も札幌にいつ続けた出不精です。

 雪が解けてきたので、そろそろ家庭菜園の土づくり。その前にテニス・コートのネットを張るのが先かも。写真は豊平の家の庭で父とクリちゃん(猫です)。クリは西野まで来て、僕が高校3年の2月に亡くなりました。そう言えば、これも豊平から連れてきたアイヌ犬の雑種のゴンも西野で息を引き取りました。