文学と他者/世界との葛藤

f:id:seiji-honjo:20211115161533j:plain

アメリカ文学の勉強を少し始めようと思いましたが、非常勤についてはやはり年令の壁があったようで。文句を言えば依頼する相手の年齢と自分の大学の定年(非常勤もふくめて)について確認しておくのが筋だと思います。僕はそんな年には見えなかった?とメールには書いていましたけれど。

 「アメリカ文学概論」というフォルダを作って1個、ファイルも作りましたが・・・でも転んでもただでは起きない。アメリカ文学の勉強の最初は、独立前の布教や開拓、冒険の記録です。これがアメリカ文学の初期というか、文学以前というか。日記や記録も文学と言えるか。そもそも文学と隣の歴史や思想・哲学と文学を分ける基準は何か。簡単に言えば、創作、つまり作ったもの、虚構であるのが文学です。

 だとして、その虚構で何を伝えるのか、虚構を書く事で作者は何を目指すのか。読み手はそこに何を読み取るのか。昨年から今年にかけて読んできた、時代小説、ポール・オースター漱石フローベールバルザック直木賞小説などに何を読み取るのか。小津安二郎の映画で描かれる1950年代の結婚、親子については半世紀前の1900年代の漱石の結婚、相続と共通するものを感じました。

「文学とは何か?」という最終講義の時の質問に答えられなかったトラウマ?を解消するために、時々考えてはいるんんです。

「文学とは何か?」、または文学は何を描くか。それは他者/外部の世界や時代と自分との葛藤だと考えました。葛藤の「物語」。「物語」についてはこの次に。で、この葛藤というキーワードは、家族における大きくは親との葛藤。少し小さいけど兄弟との葛藤。家族外では恋愛の相手との葛藤。この家族や恋愛も時代の社会の規範が制約をかけてきます。そして学校での級友や教師との葛藤、職場での同僚や上司との葛藤。社会の規範や抑圧への抵抗。この自分と他者ひいては世界との葛藤については歴史や思想・哲学が扱わないものです。いや精神分析はこの葛藤が大きな主題か。しかし精神分析は患者の葛藤を分析して治療しますが、それを社会に公表して読者に読んでもらう事はない。

 もう一つ重要なのはこの葛藤の対象が自分の感情である事も多い。他者としても自分をとらえようとする意識。「私とは一個の他者である」というランボーの言葉はデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という特権的な主体を避けて、未知の自己を他者として書いたらしい。自分から一回抜け出て他者としての視点で自分を見ることが自分の発見になると考えたのだろうか。

 そしてジル・ドゥルーズの『差異と反復』には同じ言葉をカントの発見を要約する言葉として引用した。でもそんな文学史的な、哲学史的な知識とは別に、21世紀の僕らは「私とは一個の他者である」を普通の自分の認識として考える事ができる。自分の中の生きてきた中で取り込まれた、刷り込まれた規範とか道徳とかは他者的なものとも言えます。それ以外でも自分でも制御できない自分の感情も他者的な存在と言えます。

 自分との葛藤と言えば、自分の身体との葛藤もあります。何か不調を抱えている時に、その自分の体の声を聞くとき。自分の内部でもあり、でも自分がコントロールができない外部/他者でもある。すると他者/世界には、自分の体も入るか。孤立する個人の内部(意識、身体)もまた他者であるという事は、人は限りない孤独の中に生きている事になる。この孤独を擁する意識は同じ人間の身体の中にある訳だから、内部に他者をも抱えていて、その孤独はチャイニーズ・ボックスのようにらせん状に際限なく広がって、深まっていく。

 そんなとりとめのない事を考えている時に、スティングの音楽を聞いていると、何かそれでもいいんだよと慰められているような気にもなる。葛藤を鎮める音楽。

 この程度です。もちろん中間報告の前の前の段階。

  写真は家のダイニングからウッドデッキ、雑草、隣の生垣、公園の川の向こうの小山です。