柴中佐/『北京の55日』/会津出身の軍人

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1963年ニコラス・レイ監督の映画で伊丹十三が演じた柴五郎について。薩長の新政府軍と戊辰戦争で戦い、白虎隊で多数の戦死者を出した会津。その会津出身で大将まで出世した軍人について少し興味がありました。佐幕派/敗軍の人たちの明治時代におけるあり方/活躍について気になります。

柴五郎は会津藩士の子として1859年(安政6年)に生まれ、慶応4年(明治元年、1868年)会津戦争戊辰戦争の東北地方での一局面)の時に祖母・母・姉妹は自刃してしまいます。無事だった父や兄たちと東京収監をへて青森に移住。青森県庁給仕をへて、再び東京に。流浪と下僕の生活の後15才で幼年学校に入学。19才で士官学校、21才で陸軍少尉に任官。

北京、イギリスに駐在。1898年米西戦争の視察にワシントンを訪れます。この戦争は西部開拓を終えたアメリカがスペインから独立しようとしたキューバを助けて、カリブ・中南米に影響力を行使しようとするきっかけになります。柴中佐はアメリカ軍に同行してサン・ホアン(プエルト・リコ)、サン・チアゴキューバ)の攻防を観戦?します。観戦武官っていたんですね。戦争の見学というか、現場で戦術の勉強という事でしょうか。

そして1900年(明治33年)清国の公使館の駐在武官として着任して間もなくあの義和団の乱がおきる。暴徒が各国の大使館を取り囲む中、柴中佐は1年前の任務で周辺の地理と情報を調べ上げていたので、現実的に対応して評価され実質的な各国籠城の指揮官となった。事変後、柴は各国から勲章等の賛辞を得た。これが『北京の55日』の舞台。

 帰国後1902年には陸軍大佐に昇進し、1904年日露戦争に出征。1907年には陸軍少将に進級するが、佐世保の要塞司令官という閑職につかされる。柴の履歴を見ると、有能で昇進するけれど、赴任するのは目立たない場所であった。それは朝敵であった会津出身である事と、陸軍大学を出ていなかった事が理由らしい。でも最終的には1919年(大正8年)陸軍大将に進級する。

 かなり有能だったようです。外国に派遣されて義和団の乱をはじめ数々の業績を上げているのもある種の人間力のせだいと思われます。前述の義和団の乱でもイギリス公使の信頼を得て、英国首相とも何度も会見し、日英同盟のきっかけを作った影の立役者として評価されているらしいです。

 『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』(中公新書)を注文したので、後ほど感想など。

 写真は義和団の頃。中佐の柴さん。でも柴五郎という名前の、柴のSの音の歯切れよさと五郎というさっぱりとした語感。凛々しい顔立ちでもっと人気が出てもいいような。