小津とオースター

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 あまりにも無理やりな組み合わせのようでいて、実はオースターの書いた『闇の中の男』(2007年)で主人公の老人が孫娘と家でたくさん映画を見るですが、そのうちの1本が『東京物語』。しかも6頁も説明と感想が書かれていました。一つ小さな間違い。大坂志郎の役を二男と書いていますが、三男です。次男は戦死して未亡人が紀子(原節子)でした。

 5日ほど前に書いた『ブルックリン・フォリーズ』も60才近い病を抱えた男の懊悩が甥や姪との交流と彼らのトラブルがとともに語られるが、それが最後には解決する。しかし主人公が短い入院を終えて退院するのが2001年9月11日の午前8時。これってハッピー・エンドにアメリカ最大の悲劇がオーヴァー・ラップするうまい、というかあざといとも言えるラストでした。

 そして2年後に書いた『闇の中の男』では、9.11よりも前年の大統領選にオースターは関心持っているように見える。それは『ブルックリン・フォリーズ』でも描かれていました。例の共和党(≒ブッシュ息子)が大統領選で不正をした事で不当に政権を奪い、9.11そしてイラク戦争を引き起こしたとも言える。そんな思いからか、作品では9.11が起きていないアメリカという設定で、内戦が発生している「歴史改変」物語が語られる。

 しかしそれは眠れない老人が現実から逃れるための妄想で、現実には孫娘と毎日映画を見ている。そのうちの1本が冒頭で紹介した小津安二郎の『東京物語』です。訳者の柴田さんがあとがきで書いています。1990年、ポール・オースターにはじめて会ったとき、『東京物語』に触れて「あの老夫婦は広い大都会でどこにも行くところがない。都市の孤独をあれほど見事に描いた映画はない」と絶賛していたことを思い出すと。

 うれしい。でも誤読でもないけれど、「都市の孤独」だろうか。僕は都市生活者の緊張とエゴイズムだと思います。これって世界の都市の普遍的な現象なので、オースターも理解できたのでしょうね。東京という非人間的な大都会に住む人間が自分の生活で一杯で他者(それも遠くからはるばる訪ねてきた親なのに)に優しくふるまえない。自分の子供たちにもそんな身勝手さと自己防御を見た親の哀しみだと。戦後の小津映画の多くは中流階級の幸せというよりも、家族が物理的にも精神的にも離れて行く悲しさだと思います。それを家族の離散とか崩壊といったりしているんですね。

 確かに尾道に戻って妻を失った周吉の姿は孤独そのものだと思います。その周吉の紀子との対話の意味と、東京に帰る紀子が列車の座席で周吉にもらった義母の時計を出して見る時の孤独。時間が過ぎていく中での取り返しのつかない世界に生きる孤独。そういう意味では『闇の中の男』主人公の「懐中時計を手のひらに載せた彼女を見ていると、我々は時間というものそれ自体を見せられていることを感じる」という解釈は正しいか。『東京物語』の主人公は時間でると言う評者もいて、それはそれで正しいかなとも思いました。

 そして物語の最後もある意味で時間とつながる。眠りから覚めた老人は、ホーソーンの娘の伝記を書いている自分の娘と話す。ローズ・ホーソーンはけっしてたいした詩人ではなかったけれど、最高の1行を書いた。それは小説の最後に3度繰り返される。「このけったいな世界は転がっていくんだ。」