願望思考と答責性

 

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 今朝の朝日の朝刊に掲載された井上達夫さんという法哲学者の専門家のインタビューの紹介です。

 「願望思考」の方は、政治の役割は人々が見たくない現実を冷静に見据える事なのに、こうあってほしいという「願望思考」ばかりで、危機の実相を直視しようとしなかったという政治家のお粗末な行動、頭のなかについての解説です。

僕もそう思います。確かに人はみな、何もしないうちに事態が改善されたり、たいした被害もなく過ぎ去ればいいと思いがちです。科学者にデータを集めさせたり、官僚にとるべき政策のラフプランを作らせたり、各方自治体の状況を報告させたり、そんな面倒な事をしないですむ。でもただ何もしないうちに事態が改善されたり、たいした被害もなく過ぎ去る事なんてないんですよ。今回のコロナでもそう。危機において、「願望思考」はすてて、つらいけれど、現実を見つつ、最悪の事態も想定しつつ、現状の数歩先を予測して対応することが必要になると思います。

 「答責性」とは聞きなれない言葉ですが、漢字特有の表意性で意味は想像できます。回答する責任で、為政者は有権者に説明責任を果たさなければならない。それが民主主義の基盤だと。前から書いていますが、官房長官時代の答弁での「門前払い」が染みついている、いうか説明できないから、回答をしないで質問を一蹴するんですね。「説明できない事もあるんです」と学術会議の任命拒否問題で言っていました。この件についても前に書いた記憶があるけれど、確かに首相に任命権はあるけれどそれは形式的なものであると1983年に中曽根首相が国会で答弁したんですね。それをひっくり返すなら、ここではどうして任命できないか「答責性」が発生します。

 最後に井上さんが「答責性」の本質を探っていくと「正義」の概念と深く関わると言っています。正義とは自己の権力欲や他者へのバッシングを合理化するイデオロギーではない。自己の他者に対する行動が、相手の視点に立っても正当化できるか。その反転可能性を自己批判的に吟味してみる事だと。

 この「正義」を「正当性」という事に敷衍していくと、選手たちはこのコロナ禍の元で五輪に参加したいか。参加する事に「正当性」はあるか考えるだろう。「答責性」もまた、政治家だけでなく、すべての人に課せられる。自己批判的な態度で、対話を続けて行く事の大事さ。いろんな事を考えさせられるインタビューでした。