自意識の絶対性とやぎさんゆうびん

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  ハイスミス作品の心理的緊張感とちょっと異常なのに疲れて別のジャンルで休憩しようと思い、つい漱石関係の本に。ずっと、けっこう好きです。また作品ではなく作品論を読むと「自己の内面の特権化」とか「自意識の絶対性の中に閉じこもろうとする人間の寂しさ」とか「他者を経由する自己」とかが自分的にはヒットしました。

 明治以前の集団の中で生きる伝統とかしきたりの中で、普通の日本人は特に個とか特に個の内面とか意識しなかったのが、初めて手にした個の意識(特に知識人だと思いますが)を他者との関係において相対的にとらえたりせず特権的に絶対的にふるまってしまう。その事の虚しさを多くの人に先んじて発見し表現した漱石だった。そしてそれがハイスミスの作品、特に『愛し過ぎた男』(The Sweet Sickness、1960)のストーカーにも当てはまるなと。ついまたハイスミスにつながってしまう。

 先ほど読み終えた『イーディスの日記』(1977)の悲惨な実生活と別に理想的な生活を送っているもう一人の自分の主人公とした日記を書き続けたイーディス。自分はこんな悲惨な人生を送る人間ではなく、もっと立派な夫と息子に恵まれた人生を送るべき人間なんだと自分に思い込もうとするための道具としての日記。これは漱石の個人の内面の話ではなく、フリッツ・ラング監督の『飾り窓の女』に関連する話かな。殺人を犯した教授が最後はそれは夢だったという結末がハリウッドの倫理への順応だったという通説に対して、フロイトラカンジジェクの解釈では現実界と夢の反転、つまり社会的現実の世界の方が自分の欲望を抑圧していて、夢の方が現実の自分なのだという話になるのですが、これは僕の手に負えないので次に進みます。

 さて最後の「やぎさんゆうびん」ですが、首相の語法を「やぎさん答弁」というらしい。白やぎと黒やぎとの間で読まれる事なく交わされる手紙の往復を描いたまどみちお作詞のうたです。昨日の党首討論を見ましたが、見事に相手の質問に答えませんでしたね。議論とか討論という事についての基本を理解していないリーダー。5月25日に法哲学者の井上達夫さんの「答責性」解説を紹介した時の表現を少しアレンジすると「自分の意見が相手の視点に立っても正当化できるかを、自己批判的に吟味する。」ことが必要だと。でもその前に質問に答えていないんですから。