日本での翻訳初登場だったハイスミスの『慈悲の猶予』

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『慈悲の猶予』というのが『太陽がいっぱい』(角川書店、1971年)、『見知らぬ乗客』(角川書店、1972年)に先んじてのハイスミスの最初の翻訳本のようです。映画はあんなに注目されても、原作の翻訳はまだそんなに求められていなかった時代なのでしょうか。今なら上映に合わせて(あわてて)翻訳が出版されるのに。さて原題A Suspension of Mercy (1965)が『慈悲の猶予』(ハヤカワ・ノベルズ、1966年)というタイトルで、そして20年後の1986年には創元社から『殺人者の烙印』という新たなタイトルで改訂版が出ました。この改訂版が今回のテキスト。

 A Suspension of Mercyの意味は、「慈悲の猶予」では直訳でよく分からない。しかも本文では「慈悲による感覚の停止」と訳されていてさらに分からない。実は訳者あとがきでの解釈のほうが正しくて、主人公は妻を寝取った相手に睡眠薬を無理やり飲ませて、自殺に見せかけて殺そうとしますが、最後は「慈悲によって(完全に死に至らしめるのを)やめた」のです。でもその後、ほっておいて死んでしまったのですが。

 そして改訂版ではアメリカ版の原題The Story-Tellerを採用したのは、主人公が作家/脚本家なのと、実生活でも不和の妻を殺す物語を手帳にメモをしているからですかね。しかも名前はシドニーバートルビーハイスミスは『太陽がいっぱい』でヘンリー・ジェームズの『使者たち』をさりげなく引用していましたが、ここではあの「書記 バートルビー」への文学的な目くばせでしょうか。The Story-Tellerなバートルビーって言うのはすごいアイロニーです。

 さて物語は、イギリスはイングランド、ロンドンの北東にあるサフォーク州のコテージから始まります。主人公はアメリカ人で作家のシドニーと絵を趣味とするアリシアで、家は妻の両親からの結婚プレゼント。でも1年半がたってシドニーアリシアを想像の中で20回は殺すようになっていた。もっともテレビ・ドラマの脚本の相方がロンドンにいて、彼の事も想像上では殺しているんです。私生活も仕事もうまくいっていない作家の虚構と現実の境界が曖昧になっていく生活。しかも作家としてなかなか目が出ないその焦燥によって、得意のはずの虚構がコントロールの効かない妄想へと暴走していきます。そしてアリシアはそれを見抜いていて夫をからかう。そのような緊張と心理の駆け引きの描写がハイスミスはうまいと思います。グレアム・グリーンが「不安の詩人」と評した、または現代の「イヤミス」(読後感の「嫌な」ミステリー)の先駆者と言うか。

 次第に妄想が現実化していく。妻はやり直すためにもしばらく家を出ると言って、その後は失踪したふりをして、夫を困らせ、知り合いの男性と短い同棲をする。この辺り映画の『ゴーンガール』に似ているか。残された夫は隣のお節介な老婦人をからかうように、絨毯に死体を隠したように見せかける。ちょっとずつ常軌を逸していく登場人物の描写がうまい。それが当然のように警察の疑いを招き、近隣にも次第に忌諱されていく。一方で、失踪したアリシアの行方をシドニーは突き止める。アリシアはどうすれば離婚して、同棲中の恋人と結婚できるかを相談するが、この恋人が弁護士なのに頼りない。

 絶望したアリシアは崖から飛びおりて亡くなってしまう。実は飛び降りる描写はありません。A Suspension of Mercyの意味のところで説明したようにシドニーは妻を寝取った相手に睡眠薬を無理やり飲ませますが、その過程でもアリシアを崖から突き落としたという告白は得られない。そこんところを曖昧にしたまま死んだ弁護士の死因を自殺ではなく、シドニーによる殺人だとスコットランド・ヤードの警部が疑っているところで小説は終わります。