『見知らぬ乗客』、欲望の浸透/転移/模倣

『見知らぬ乗客』のパトリシア・ハイスミスの原作(1950)とヒッチコックの映画(1951)の両方を再読/再見しました。僕的には 原作の勝ちです。

 前項の『ロープ』でもそうですが、僕はヒッチコック作品の作為性に対して批判的です。そしてパトリシア・ハイスミスはある意味でお気に入りの作家です。ちょうど1年前の6月にハイスミス生誕100年のミニミニミニ特集をしました。でも「嫌ミス」と言われるように読後感は決して爽やかでないけれど、人間について考えさせらます。

 原題のStrangers on a Trainが意味するように、ガイという建築家とブルーノという金持ちの息子が列車で偶然出会い、ブルーノが会話の中に出たガイの離婚係争中の妻を殺すから、ガイは自分の父親を殺してくれと「交換殺人」を持ちかけます。小説冒頭の描写が列車の各駅停車、揺れなどがガイのイライラする気分を相乗してうまい。映画では、駅構内を歩くオシャレなブルーノのズボンとサドル・シューズと地味目のガイのズボンと靴とが交互に画面に出てきます。

 ガイ(ファ―リー・グレンジャー)はテニス選手なのでもう少しお洒落でもいい。ブルーノ(ロバート・ウォーカー)は金持ちのぼんぼんなので服装に凝っています。でも正常なガイと少し異常なブルーノなのでこの服装でいいのかも。ガイは離婚しそうな妻と新しい恋人がいるので異性愛者でいいけれど、ブルーノに特に女性関係は描かれない。そしてガイへの傾倒はかなり同性愛的です。それと今でいうストーカーか。ぼんぼんの甘ったれた表情と演技がロバート・ウォーカーはうまい。そしてガイというかファ―リー・グレンジャーの方は、そのような求愛?に怒りそして戸惑う。この辺、役と俳優を意識的に混同しています。

 ブルーノは勝手にガイの妻ミリアムを殺して、ガイに自分の父を殺すように迫ります。映画では妻殺しの容疑を受けながら、ブルーノの要求をかわすガイですが、小説では次第に混乱し、ついにブルーノの父を殺してしまいます。それがタイトルの「欲望の浸透または模倣」です。ある論文では「移動」としていましたが「転移」が普通のようです。さらに「浸透または模倣」も悪くない。

 ついヒッチコックというとジジェクの理論を使いたくなりますが、映画はともかく原作の方がブルーノを嫌悪しつつ、次第にその考え方がガイに浸透していく。ブルーノの欲望をガイが模倣していくようになる。その辺を詳しく、しつこく書いていくハイスミス。実はブルーノは最後の方で酔って船から落ちてなくなります。しかもガイは危険を顧みず海に飛び込んで助けようとする。そのくらいブルーノと一体化?している。映画に戻るとこのブルーノを演じたロバート・ウォーカーもまた、映画の後1年足らずで亡くなります。それもアルコール(と鎮静剤によるアレルギー)で。これはこじつけですが、俳優もまた演じた人物の欲望を模倣すると言えますか。

 その後ガイはミリアムの恋人のオーエンと飲んで交換殺人について告白するのだけれど、妻帯者であるオーエンはミリアムにうんざりしていて、ガイの告白にも何も反応しない。そしてその告白はブルーノの父殺しを捜査していたブルーノ家のお雇い探偵に聞かれてしまいます。それで思わずガイは自分を逮捕して下さいと言ってしまう、ラスト・シーン。オーエンへの告白からして、自分を罰してほしいと願望がありました。でも普通は罰から逃げる。普通の人間が普通でない人間と出会い、次第に自分の中の普通でない部分が発現してきて、または普通でない人間の普通でない部分が浸透して転移して、または普通でない部分を無意識に模倣するようになっていく。

 そのような異常性の浸透/転移/模倣の物語とそのすっきりしない終わり方は不条理と言ってもいいと思いました。何か理屈に合わない物語を不条理という癖があるかも。でも不条理って簡単に言うけれど、常識に反している、つまり普通じゃない、って言うことは異常?それと文学では不条理な展開にによってナンセンスな効果が表れるとされている。ナンセンス=無意味、じゃ意味って合理的な常識の世界かな。ガイはブルーノの死後、その遺髪を継いで?、というよりもさらに生きる意味を無化する自滅的な行為に向かったと思えます。ヒッチコックよりもハイスミスの方が深い/暗い。