オースターの『幽霊たち』と分身

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 オースターの『NY3部作』の2作目『幽霊たち』と『過去を逃れて』について分身のテーマからの見直し。

 主人公の探偵ブルーが好きな映画『過去を逃れて』について過去からは逃れられないとするペシミスティックな物語だ。主人公のジェフ・マーカム(ミッチャム)は過去に追いつかれたと考える。『過去を逃れて』はファム・ファタールによる裏切りの物語です。ジェフは1回裏切られた後、名前を変えてひっそり暮らしています。しかしもう一度ファム・ファタールに誘われ、最後に彼女に殺されたのか、警察の一斉射撃で死んだのかあいまいな最期を遂げます。

 ここでは自分の過去から逃れられないという『過去を逃れて』のテーマをおさえておいて、『幽霊たち』に戻ります。探偵ブルーはホワイトに依頼されて、ブラックという人物を監視します。場所はブルックリン・ハイツ。ブラックのアパートの通りをはさんだところにホワイトが部屋を手配してくれます。しかしブラックは何かを書いたり、ソローの『ウォールデン』を読んでいるだけで何もしない。ブルーは報告書を書く事ができない。

 監視を続けて1年半がたち、ブルーは思い切ってブラックに会う。そこでブラックが語った物語は、自分は私立探偵で一人の男を見張っているけれど、相手は見張られているのを知っていると。立ち去ったブラックの部屋に忍び込んで机の上の書類を盗んでみるとそれは自分の書いていた報告書だった。

 ブラックは明らかにブルーの分身と言えます。分身は文学ではドイツのドッペルゲンガーが有名で、19世紀の都市化と個人の意識の高まりとともに現れたと考えられます。前もふれたポーの短編「ウィリアム・ウィルソン」、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、R・L・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』などですね。これが現代文学アイデンティティの意識というか探究と分身の問題が重ね合わされてきます。それとフロイト的には超自我に抑圧されたもうオルタ―・エゴの発現など。多重人格の物語が小説や映画になったのも1960年代から70年代だったように思います。

 また1980年代に前にもふれた一人の人間に複数のアイデンティティがあってもいいのではないか、統一されたアイデンティティとのは古いという考え方も出現します。つまり多重人格とは異なる、こう言っていいかどう微妙ですが、病理とは異なるポストモダン的な個人の普通のあり方でもあるというか。そして1990年代から2000年にはアイデンティティの頸から脱しようという脱アイデンティティという考え方があるようで、ここらあたりで僕はギブアップしました。興味がある人は上野千鶴子編『脱アイデンティティ』(勁草書房、2005年)を参考にして下さい。

 ただ脱アイデンティティというのも統一的な単一のアイデンティティを社会が要請したり、国家的に利用されたりする事への抵抗という部分もあるから、人が暫定的に緩やかに一つのアイデンティティを確保して、その周りに複数の仮説的な小アイデンティティがあればいいのではと思いますが。

 『幽霊たち』に戻ると、ここでの分身は抑圧したもう一つの自己というよりは、コピーのような、クローンのような、取り替え可能な自己のようにも思えます。ブラックはブルーその2だった。そしてブラックが消えても、ブルーがいなくなっても、ブルーその3、その4と、個性やアイデンティティとは無縁なノッペラボーな探偵が登場する。それはもう探偵もでもなく、「幽霊」のような、影のような存在でしかない。