ハイスミス/孤児/実存的自由

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 ㇵイスミスの3作目の『妻を殺したかった男』(1954)を読みました。処女作の『見知らぬ乗客』(1950)、2作目のThe Price of Salt(1952)後の Carolと『太陽がいっぱい』(1952)にはさまれた本作、原題はThe Blunderって「ドジなやつ」という主人公に対してかわいそうな気もします。

 翻訳のタイトルは「妻を殺したかった男」であって「妻を殺した男」ではないので、殺せなかった事がすでに暗示されています。というかもっと悲惨で、実際に妻を殺した男と接触し、しかも自分の妻が殺されてしまうので、犯人にされてしまう。「妻を殺したいと想像する男」という点と殺人犯に擬せられたので周囲から疎まれる点において、すでに紹介済みの『殺人者の烙印』(1965)と少し似ている。

 それにしても、「実際に妻を殺した男」(まだいちおう容疑者です)と「妻を殺したかった男」(殺してはいないけれど容疑者)をいたぶる刑事のサディストぶりがすごい。ハイスミスの視点では、犯罪者も法を執行する者も正義と倫理と無関係な地点で行動している。その実存的自由と言ってもいいような、本当に意味でのハードボイルドとても言える描写がすごい。

 さてハイスミスの孤児性については、彼女が家族と家庭とかについてかなりクールな、面倒くさい血縁・家族関係から無縁の地点から描いているように見えるのは。その家庭環境からくる部分もあるのかなと。ハイスミスが母親のおなかにいる時点で、母は父と離婚したらしい。母方の祖父母に育てられているところを再婚した母と義父に引き取られたが、あまり懐かなかったようだ。

 この孤児性はオースター作品でも主要なテーマの一つですが、オースターよりも人を突き放したような、自分しか信じない、暗くない(と言ってもちろん明るい訳でもない)虚無感がただよう。孤児とか連れ子って、最初は大人の顔色を伺うんでしょうが、その次に甘えても人次第だし、次第に人を信用しなくなる。自分の世界だけしか信じられなくなる。もちろん全部がそうではないでしょうが、ハイスミスの履歴や写真を見るとそんな人生観が垣間見えて、それが作品を密接につながっているように思えます。

 最後にこの作品1963年にクロード・オータンララ監督のよって映画化されています。オータンララと言えば、ジェラ―ル・フィリップをスターにしたレイモン・ラディゲ原作の『肉体の悪魔』(1947)とジュリアン・ソレルを演じた『赤と黒』(1954)で有名です。『妻を殺したかった男』はLe Meurtrier(殺人者)というタイトルで、悪徳刑事をロベール・オッセン、主人公のウォルターをモーリス・ロネが演じます。もちろん『太陽がいっぱい』のフィリップ役です。