
アマゾンで『雨の訪問者』(1970)を50年?ぶりに再見。
50年前は『太陽がいっぱい』(1960)のルネ・クレマン監督作品という事と、『さらば友よ』(1968)でアラン・ドロンと格好いいタッグ・マッチを演じたブロンソン映画という事で観た記憶があります。確かにブロンソンは曰く言い難い魅力がありましたけど、感想はそれで終わり。中途半端に文学的なミステリー映画で、アリスについてもよく分からなかった。
でも50年後に再見して、監督の意図も前より理解できた気がします。まず『不思議の国のアリス』との関係。冒頭に『不思議の国のアリス』(1865)が引用されます。当然主人公マリーはアリス的な無垢で、不思議な、邪悪な登場人物に翻弄される。
『不思議の国のアリス』の方はビクトリア朝時代のキリスト教的な教訓が中心となる児童文学の中で、子供たちが喜ぶ物語をオックスフォードの数学者ルイス・キャロルは知り合いの少女たちのために作った。それが出版され、世界中の子供たちだけでなく、文学愛好家・研究者に読まれる。さらに作者のロリータ・コンプレックス的な性向も知られてなのか、フロイト的解釈も出てきます。これは問題ありと考えるか、妥当な受け取り方か。そしてまたその不条理性の故かシュルレアリスムにも影響する。
それが100年後のフランス映画にも。単なる冒頭の引用ではなく、登場人物のフランス語を話すチャールズ・ブロンソンもアリス的? マリーの夫の秘密を探るアメリカ軍の大佐役。夫はパイロットで、何か密輸の手伝いのような副業をして妻も驚くような大金を持っています。
そして大佐(ブロンソン)は捜査よりも、夫の秘密に関連する暴漢による被害者のマリーに関心を持つ。これもまたアリス物語的でナンセンス≒不条理な、役割の逸脱。マリーは、母親や夫に支配されるイノセントな女性。年令は大人ですが、舌足らずの話し方をする少女のような。それをそばかすのマルレーヌ・ジョベールがうまく演じています。でも50年前に見た時ほど魅力的ではないと感じました。当時30才かな。アリスには少しとうが立っています。ミニ・スカートの足はきれいですが。
それに比べるとブロンソンはこの映画ではなんとも言えないチェシャ猫的な魅力がある。ぶっきら棒で、時々ニヤッと笑う、意地悪な、邪悪なような、でも愛嬌のある多面的なキャラだと思います。また『アリス』のウサギでもあるとすると、異世界への導き手でもあり、セクシュアルな存在でもありますね。
けっこうブロンソン映画を見ているので、有名になった後にたくさんの映画に主演して、残念ながら駄作も多い中で『さらば友よ』(1968)と並ぶ映画と言えます。それはユーモア。それもブラック・ユーモア的に厭世的、皮肉な笑顔もブロンソン的。
さて映画に戻ると、写真にあるようにメアリーは無理やり踊ろうとするドブス大佐の時計に目を止める。アリスが時間を気にしながら急ぐウサギの後を追いかけて穴に落ちるのと逆のパターンかな。実は監督のルネ・クレマンは後の『狼は天使の匂い』(1972)でもアリスに言及します。原題がLa course du lievre a traverse les champs,つまり「ウサギは野を駆ける」。でもちろんウサギは『不思議の国のアリ』から、さらに冒頭では『鏡の国のアリス』の引用と鏡とチェシャ猫も登場する。
監督は『太陽がいっぱい』では後に同性愛的と評される美男俳優の殺人物語を撮り、次に少女愛的な原作に依拠する物語を撮りました。少しパトリシア・ハイスミス的、ちょっとルイス・キャロル的な志向をもつ人なのかも知れません。ついでに言えば、脚本は『さらば友よ』(1968)、『雨の訪問者』(1970)、『狼は天使の匂い』(1972)の3本ともセバスチャン・ジャプリゾという推理作家。
『雨の訪問者』に戻ると、最後はマリー(アリス)を助けて、去って行きます。チェシャ猫のような、悪意と邪気と優しさがない交ぜになった複雑な笑顔を残して。しかし、前述のようにその後のブロンソン映画はたくさん作られ、ほとんど見ていますが、再見したいと思うのはあまりありません。と言うか『さらば友よ』と『雨の訪問者』で個人的に記憶される。
因みにマリーを襲って、逆に殺される暴漢(The Passenger)は最後に、MacGuffinnという名前である事が分かります。このマクガフィンは物語の進行上、必要な道具と言う意味で、ヒッチコックによるとスパイ物の秘密の書類のようなもの。でも元々は『指輪物語』の指輪のように重要なもの指す。『雨の訪問者』ではヒッチコック的なマクガフィン、つまり物語の進行上、重要なような、それ程でもないような、曖昧な仕掛け/登場人物のように思えます。