ホーソーンと映画版「ウェイクフィ―ルド」

 映画の原題はWakefieldですが、DVD発売時は『シークレット・ルーム』らしく、アマゾンでもその題でした。でも日本では劇場公はしていないらしいのに邦題があって『アイ‘ム・ホーム覗く男』。これも内容を説明しようと苦心しているのでしょうが、センスがないと言うか。失踪したけれど、自宅のガレージの2階にひそんで、家を覗いているんですね。それで「アイ‘ム・ホーム」(家にいて)、「シークレット・ルーム」(ガレージの2階)から覗いていると。因みに原作の最後は主人公が家に戻って叫ぶ、”I’m home.”(「ただいま」「帰ったよ)です。

 原作は映画『ラグタイム』(1981年)、『ビリー・バスゲイト』(1991年)で有名なユダヤ系作家E・L・ドクトロウ。映画完成時の2016年に亡くなっています。

 そして原作Wakefieldは当然ですがホーソーンの短編「ウェイクフィ―ルド」(1835年)に依拠した現代版蒸発物語。

 ホーソーンの短編は文学的な影響と言うか、何か作家の気持ちをかきたてるものがあるのでしょうね。

 僕もメタ・ミステリー論で扱った事のあるポール・オースターのNY三部作の2番目『幽霊たち』がそう。主人公の探偵ブルーは見張りをしているうちに婚約者と何年も会わなかったり、ブルーに向かって作中人物が「ウェイクフィールド」のストーリーを語る場面があります。ここでも見張り=監視が繰り返される。

 また夫が失踪した後の妻はどうしていたか、気になる。それでアルゼンチンのエドウアルド・ベティという作家が1999年に『ウェイクフィールドの妻』を書き、日本では『ウェイクフィールドウェイクフィールドの妻』と合本で翻訳が出されました。

 2000年にはスペインの作家エンリケ・ビラ=マタスという作家が、メルヴィルの『代書人バートルビー』(1853年)を基にした『バートルビーと仲間たち』を出します。そこでは”I prefer not to”を連発する

仕事をしないバートルビーや作品を書かない作家などが登場します。関連して家から逃避した「ウェイクフィールド」にも言及しています。19世紀前半のアメリカ。都市化する社会の人間関係の煩わしさからの逃避、無関心と言う消極的な態度を積極的?に採用する。その理由が見えないとカフカ的な不条理とも目されます。

 さて「ウェイクフィールド」の文学的影響について長くなりましたが、映画の方は失踪の理由が比較的明白。しかも無関心ではなく、自分のいない家族を執拗に観察しています。もともと妻からは自分を監視していると非難されてもいる。

 主人公ハワード・ウェイクフィールは特に失踪願望があったわけではなく、帰宅が遅くなり、ガレージに逃げ込んだアライグマを追い出そうとして。屋根裏に上がると、窓から家の様子が見えます。これも伏線があって、ハワードがカーテンを閉めたがるのに対し、妻のダイアナは開けて暮らすタイプ。それで外から家の中が結構見える事になります。

 そのうち疲れて眠ってしまう。目覚めて驚きますが、家族がいなくなってから戻ろうと思っているうちに、妻が警察を呼んだりして戻りづらくなります。そして留守宅(妻と双子の娘たち)を覗き続ける。

 主人公ハワードはあのTVドラマ『ブレーキング・バッド』や『ハリウッドで最も嫌われた男』で有名なブライアン・クランストンが演じています。映画当時60才で、妻のジェニファー・ガーナーが44才なので、けっこう年の差がある夫婦。

 家族とか仕事か、社会的成功とかが絶対的なものではないと考える。それでも失踪していなくなるのではなく、自分の方はいくぶん家族とつながっている。中途半端なホームレスになって、近所のごみをあさります。ひげや髪がのびて、妻に会ってもばれない?それは少し不自然でした。

 最後に身なりを整えて”I’m home”って帰っていきます。家族のリアクションをハワードいくつか想像しますが、実際にはどう迎えられるか分からない、いわばオープン・エンディングでした。そこはハリウッド映画とは違うかな。

   写真は屋根裏部屋の窓から家を覗いているハワード。だいぶひげが伸びています。