『熱いトタン屋根の上の猫』と序文の話 

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Cat on a Hot Tin Roofテネシー・ウィリアムズの1955年の作品で1958年にリチャード・ブルックス監督の手によって映画化されています。ポール・ニューマン33才、エリザベス・テーラー26才。

 監督のリチャード・ブルックスは『プロフェッショナル』(1966年)を『映画の友』で知った記憶があります。まず西部劇の監督として刷り込まれた。しかし翌年の『冷血』、遡って1965年の『ロード・ジム』。これはまだジョゼフ・コンラッド(原作)は知らないので、ピーター・オトゥールの映画だと思っていました。しかし60年の『エルマー・ガントリ―』(シンクレア・ルイス原作)、62年の『渇いた太陽』は原作テネシー・ウィリアムズ、主演ポール・ニューマンなので、『熱いトタン屋根の上の猫』はこの原作・主演・監督のトリオの復活なのだと。しかもフィッツジェラルドの『雨の朝巴里に死す』(1954年)や『カラマゾフの兄弟』(1957年)も撮っているので、見た目とちがってまちがいなく文芸ものの監督だと思います。

 話がつい映画の方に行くのはいつもの事ですが、メインは「序文」について。その前に少しだけエピグラフについて。なぜならここでもブログで何度も言及しているディラン・トマスのDo Not Go Gentle Into That Good Nightがエピグラフに使われていました。理由は明らかで、劇の舞台が南部の農場主の屋敷。老主人ががんで余命短く、長男夫婦と次男夫婦が駆けつけるからです。この詩もディラン・トマスが重病の床に就いていた父親に向かって書いたのでした。因みにディラン・トマスは本の宣伝のためにニューヨークに来ていて、ホワイト・ホース・タバーンでウイスキーをストレートで18杯も飲み病院に運ばれなくなります。テネシー・ウィリアムズも葬儀には参列したようです。
 さて今回のメインの「序文」についての参考文献?は工藤庸子『恋愛小説のレトリック――『ボヴァリー夫人』を読む』です。フローベールは序文を書かなかったが、その前のバルザックや、後輩のゾラは書いた(作品もある)。この工藤さんの本は文学理論を相対化しながら使うので、分かりやすい。例えば人名を使うタイトルの意味。「ボヴァリー夫人」はなぜ「エンマ」でも「エンマ・ボヴァリー」でもないのか。ファースト・ネームの親しみやすさ、ロマンティックな雰囲気をあえて使用しない。オースティンには『エマ』があるのに。「夫人」とつくので、婚姻とか家の問題、夫人には夫がくっつくし。

 でポストモダンの文学理論では主たるテクストに付随するものパラテクストといって、タイトル、まえがき、あとがきなどを指します。テクストをどんな枠に入れるか、レッテルを付けると言うか、読者への案内というか。例えば注もパラテクストに入れる場合と、メタテクストとしてテクストを批評する役割を当てはめる場合とがあります。

 前にも幾度か書いた額縁小説。これもパラテクストに入ります。これは物語が虚構である事があまり評価されなかった時代のもので、「見つけられた手記」を紹介する序文=枠、額縁ですね。信憑性や臨場感、事実であるという雰囲気が醸し出されます。つまり物語、お話≒作り物に対するリアリズム≒事実に近い物語。有名な『フランケンシュタイン』もそう。そして20世紀後半のポストモダン時代には逆に物語の虚構性を前景化する意味で序文を付ける場合も出てきますが、この『熱いトタン屋根の上の猫』はちょうどその中間か。作者が戯曲のテキストだけでは言い足りない事を補足すような役割です。僕的にはなくていい。テキスト1本で勝負してもらいたい。

 でもと言うか、この序文には数年前に発表した処女作『ガラスの動物園』の序文の一部が引用されていたり、エミリー・ディッキンソンの美と真実は一つもものだと言う詩句を引用したり、盛りだくさんです。読んでいるうちに序文というよりも独立したエッセイのようにも感じられて。実はこの戯曲の主人公のブリックは親友を亡くして酒浸りになって妻を構わなくなるのですが、同性愛でもあったんですね。だから妻は嫉妬する。愛する夫のそばにいての孤独。孤独と言えばディッキンソンのテーマでもある訳ですが、ウィリアムズのテーマでもある。

 この序文でも、創作する者の作品と作家との関係について、作家の個人的な関心の普遍性と技術について語っています。『ガラスの動物園』初演(エリア・カザン演出)の時の不安と孤独についても。でしかも作者が途中で登場人物の言葉やについて1000字も費やして説明をしている。ビッグダディが次男のブリックについて、長男夫婦がほのめかしている同性愛的な志向に言及する場面。

 これを訳者はト書きだと言っているけれど、ト書きとはこのような文章もさすのだろうか。「ト書き」とは「戯曲の中でセリフ以外の、主として登場人物の動作や行動を指示する部分」とあるので普通に言えばト書きではないでしょう。でも「主として」とあるので、それ以外のト書き的な文章もあり得るでしょうから、まさにpara-(~につく、準ずる)という意味でのパラテクストとしてのト書きという事になりそうです。ちょっとト書きとしては逸脱していますが。

   逸脱と言えば、セリフ自体もダイアローグと言うよりはモノローグ的なセリフが目につきます。思い出してみれば奇しくもポール・ニューマン監督での『ガラスの動物園』(1987年)を見ましたが、トムのモノローグが物語の額縁となっています。これがテネシー・ウィリアムズの戯曲の書き方のでしょうか。よく分かりませんが、詩的なモノローグ的な舞台って、日本人は好きなのでしょうか。また家族の問題、恋愛、結婚、親子、たぶん社会的な問題よりも家族のテーマが、その表現も含めて人気がある理由だと思います。

  テネシー・ウィリアムズ自身は、1975年に『回想記』(Memoires)を書いていますが、1911年生まれの作家にとって、同性愛であることは今よりもずっと生きずらい時代だった。戯曲の成功は1940年代から50年代で、それを受けて50年代後半から60年代にかけて映画化かにより世界的に有名な劇作家となりますが、60年代から70年代はパートナーとの関係などで酒とドラッグ?に耽溺して、精神病院に入った事も。
 さてモームとかパトリシア・ハイスミスとか同性愛の作家を取り上げていますが、自分でもその傾向があるのあか?それはないと思います。でもフローベールLGBTの作家に入れられていて不思議な気もしますが。恵まれていて何の屈託もない人が作家になる事はないでしょうね。性的志向がマジョリティと違うだけで、差別や偏見にさらされたり、その志向を隠したりしなければならない人は、そのような社会とか国家とかに違和感を感じ、世界とは自分の人生とはって考えるんでしょうね。そのような人に文才があれば作家が誕生する。

 どうして『熱いトタン屋根のうえの猫』を選んだのか忘れて?しまった。工藤さんの本に触発されて、パラテクストとしての序文について、何か例を挙げて考え見ようと思ったのでしょうが。

 写真は『熱いトタン屋根の上の猫』のマギー(エリザベス・テーラー)とブリック(ポール・ニューマン)。僕はいつもポール・ニューマンの腹筋に憧れて?いました。