日本人と武士道という幻想

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 ここ半年くらいけっこう江戸時代の武士を描いた小説を読み続けています。主として藤沢周平、それが終わった後時代をさかのぼって山本周五郎。いいのもあるけれど描き方や人間のとらえ方がちょっと違いを感じ、自分と似た世代1950年前後生まれの作家の小説を読んでいます。しかしそれはなかなかブログで感想を書くに至らないのは何故だろう。それも町人よりも武士の話が好きです。それもどうしてだろう。自分の中にある武士道という幻想を検討?してみます。

 僕はよく幻想という言葉を使いますが、日本人と武士道という幻想。例えば日本人が震災とか有事の際に暴動とか略奪とかしないで、助け合い、周りや人に配慮する、それも武士道と説明する人もいて、それは違うなと思います。おそらく農耕社会における必要な協力体制の名残りではないだろうか。狩猟民族まで遡らなくても、漁師や職人とはちがい農業には忙しい時に助け合うシステムがある。でもそれと武士とは関係ないでしょう。

 1899年にニューヨークで英文のBushido: The Soul of Japanを出した新渡戸稲造の武士道論が日本人の武士的メンタリティを広め、それを受けて日本人も武士ではないのに、武士道を重んじる国民だと勝手に幻想を抱いてきたように思えます。遡って佐賀藩鍋島家の山本常朝の『葉隠』(1716)の「武士道というは死ぬことと見つけたり」が武士道の極致のような過激な死生観によって記憶される。そこでいかなくても武士だけでなく、商人や庶民にも「卑怯な真似はしない」とか「誠実な行動をする」とか武士だけではなく人として必要な倫理、行動規範として機能してきた向きもありそう。

 そして武士道からはじまって庶民・町人にも広がった人としての倫理・行動規範が日本人一般の者となった時、日本以外の人たちに理解してもらうために武士を日本人の代表としてプレゼンし、日本人=侍というイメージが広がる。それを受け取った日本人もそれを再利用したり、そうだと思い込んでしまうというプロセスのように思えます。武士の始まりなどについても関心があるのですが、それは別の時に。

 写真は脇差(30~60cm)。以前ネットのオークションで2本ほど買いました。10万と14万だったか。でも研究室を引き払う時に、家では嫌がられたので、骨董屋に売ったら2本で1万円?!たいした刀剣ではなかったですが、それでも買い叩かれたと思います。