武士と新歴史主義

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 もうだいぶ前になりますが、イギリスの歴史を見直すような文化の本がたくさん出た時期がありました。女中さんや宿屋(イン)の歴史と文化についてなど。それは後述の新歴史主義と関連しています。

 1950年代以降、従来の歴史主義を支配者・王侯貴族・勝者を中心とした固定した権威主義的なテクストとして批判する新歴史主義が登場。ニュー・ヒストリシズムにおいて歴史は客観的で確固とした事実としてではなく、語り手によって再構築されていく物語として扱われます。代表的論客として、スティーヴン・グリーンブラッㇳが有名ですが、英文学会で講演会があったのですが、聞いた記憶は残念ながらありません。

 例えばイギリスの女中さんの存在と歴史の関係について興味深く読んだ記憶があります。日本でも昔は女中さんがいた時代は、その時代の社会の階層と家族と職業が密接に関係していた。女中さんがお手伝いさんと名称と共に職業の中身も微妙に変質していったように思えます。カズオ・イシグロの『日の残り』も執事が主人公ですが、執事という職業の時代における変化と同様、いやそれよりも主人としての貴族の変化が強調されていたような。または主人が貴族ではなく単なる金持ちで執事を使う文化を持っていないような。

 今週扱う英米の小説も出現も読書ができる時間と知性がある中産階級の勃興と大きく関係しているように。中産階級と言えばそのお嬢さんが貴族の子弟の家庭教師になったり。ブロンテ姉妹やジェーン・オースティンのように牧師の娘が作家になるのは少し違うかな。牧師の娘の方は、中産階級でそれなりに教育がある娘が筆で世に出るというパターンでしょうか。

 さて日本でも遅ればせながら、武士の家計簿を嚆矢として、武士の給料、武家の献立などが本になり、参勤交代を現代的な解釈でコメディ的に描いた映画もあり。でも武士って結局軍人であり兵士であるわけだから、例えば江戸時代って軍人の独裁国家でもったのでしょう。大名の行列を横切ったら無礼討ち。侍はいつも武器である刀を携えていて、町人が侍にとって失礼な事をしたら無礼討ち。もっともその後、届けたり吟味を受けたりはしますけれど。もちろん一方で武士でも農民でもなく商人が実質的に支配するような時代が江戸時代中期から後期にかけて出現するのは資本主義の普及と関係するのでしょう。

 きのう再読した青山文平の『鬼はもとより』は藩札の専門家が北国の小藩の経済立て直しに協力する物語で、金や銀ではなく紙でできたお金が流通するためには紙のお金を出す政府(藩)が信用度、藩札の半分、少なくとも3分の1は藩庫にあって信用を担保する。そのように武士が支配する盤石の体制が江戸中期頃から崩れ始めていったように見えます。土台、軍人国家が何百年も続くこと自体に無理がありますよね。

 そのような武士≒侍はいつからだと少し気になりますが、それはまた別の機会に。写真は青山文平の『半席』。版画家の原田維夫(つなお)の表紙です。「半席」とは世襲の旗本(お目見え)ではなく、一代限りの旗本でしかない旗本と御家人(お目見え以下)の中間の武士のようです。そこではまだ武士階級の序列を登ろうとする限界があるようにも現代の視点からは見えます。