繰り返す失敗と反成長小説

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 昨日もまた教室でネットにつなぐのに失敗してしまった。先週はできたのに、どこが違うか分からない。80分話し続けてのどが疲れた。学生も話を聞くだけでかわいそう?

 授業の後に前の方に座っていた学生が来て「僕も稚内なんです」と話しかけて来る。「北海道とアメリカ文学の親和性」について話した時に、母方が鳥取稚内と説明したたので。帰省する時の列車の本数が少ない、旭川からバスに乗る方が安いんです、などと話して行きました。ちょうどダブって注文してしまい、学生にあげようと持参していた『グレート・ギャッツビー』をあげました。 

 非常勤講師室に戻ると旧知の教務の青年がいたので雑談をして、来週の授業の始めに手伝ってくれるようにお願いする。

 終了後、タクシーで近代美術館へ。5時閉館で4時半までに入る必要があります。入り口ではアルコール消毒、検温、さらにはもしもの時?の連絡先まで書かされて入場。小原道城先生の奥様(同級生)はいなくて、会場で初めて道城先生にご挨拶。芸術家兼プロデューサー的な雰囲気の方だなとの印象を持ちました。

 

 さて標題まで前置きが長くなりましたが。自分の機械の操作の繰り返す失敗と、反成長小説って結局失敗を繰り返して成長しない物語なんだなと納得したのと、それってアメリカっていう国のあり方と関連しているのだなぁという思いとが錯綜しています。

 教養小説というジャンルを大雑把にヨーロッパと言いましたが、ドイツの市民社会の成立と啓蒙主義の浸透がゲーテの『ウィルヘルム・マイスター』を代表作とするような作品を生み出したと。ただ「ビルドゥング」(自己形成)を「教養」と訳したのはかえってジャンルの意味や中身を理解しずらくしたように思えます。「成長」の方が深みはないけれど分かりやすい。それとやはりドイツのような思索的で内省的な国民性?が生み出したジャンルのようにも思えます。

 成長するといえば若者ですが、青年という概念もまた近代の産物だと言う指摘が、石原さんの『漱石記号学』(講談社選書)に出て来ました。直接的には三浦雅士の指摘だと石原さんは言っています。『ヘルメス』という雑誌に掲載した「青春の研究序説』とあり、手元にある『青春の終焉』が関連がありそうだと調べてみましたが、こちらは『群像』に掲載したものをまとめた。それでも青年と言う概念の登場について書いていいる部分があるかなとちょっとだけ探しましたが、該当する部分はありませんでした。

 『それから』の代助のような高等遊民と、『三四郎』の三四郎のような上京青年とでは、内面の成長の内容も違うでしょうし、出世型と反出世型とでは、成功と失敗の意味も真逆になりそうですし。前段の主張とは違いますが、この明治末の高学歴の青年たちについての物語は教養小説でもいいようにも思えてきました。こちらの方も反成長小説≒教養小説の枠組みで読んでもいいような気もします。

 さてもう一度ドイツから発したビルドゥングス・ロマンに話を戻すと、同じゲルマン民族とは言え、イギリスは経験則による国で、ドイツ的な内省とは違う。アメリカはアングロ・サクソン系が多いとはいえ、国の成り立ちがイギリスとは違い、歴史も伝統もない国だったので、実験的に試行錯誤して、失敗を繰り返す。やっと標題に近づいてきました。国や社会とそれが生み出す文学との直接的な影響関係を考えると、反成長小説は成長をしない国アメリカの小説としてふさわしい?のかも知れません。でも文学としてはそれでいいとしても、国としてはその影響力も考えるともう少し何とかしてほしいとも思います。

 写真はえこりん村のポタジェ。ポタージュとも関連がある言葉で、庭的な外見もある野菜畑というところでしょうか。キッチン・ガーデンと書かれていました。