マーヴィン・ルロイという監督

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オースターのReport from Interior (2013)の『内面からの報告』(2017年、新潮社)を司会絡みで読みましたが、けっこう面白いです。少年時代に見た有名な『縮みゆく人間』(1957年)とそれほど有名ではない(と思う)『仮面の米国』(1932年)の感想が前者は20頁、後者は30頁以上にわたっています。たぶんビデオで細かくみたのでしょうが、そこは作家なのでストーリーと映像の説明と解釈が面白い。

 僕は『縮みゆく人間』の方が面白いと思ったのそれを中心に、『仮面の米国』の方についてもちょっとだけ紹介のつもりが、こちらの方の監督のマーヴィン・ルロイについて知ってはいましたが、思ったよりもすごい監督である事が分かりましたので今回はそちらの監督について書いて、『縮みゆく人間』については明日にします。

 さてLeRoyというフランス系の苗字ですが、サンフランシスコに住む第2か第3世代のユダヤ系移民で、デパート経営で財を成したようです。1900年生まれで小さい時から母の影響でボードビルなどの芸能に興味を持ったようですが、実はユダヤ人というのはノーベル賞受賞者が多く、知的遺伝子があるように思う人も多いようですが、芸能にも関心があります。被服産業に従事していたユダヤ人が新興の映画産業に参入したのはそのような下地があったからなんですね。

 残念ながら両親は突然離婚をしてしまい、しかも1906年のサンフランシスコの大地震で父は財産を失ってしまいます。生活のためにボードビルに出演し、ハリウッドで西部劇に端役で出演。フェーマス・プレーヤーズ(のちのパラマウント映画)に入社しますが、実は従弟が映画史では有名なフェーマス・プレーヤーズのあのラスキーだったんです。サミュエル・ゴールドウインやアドルフ・ズーカーなどのハリウッドの大立者と仕事をしていた人物です。

 さて撮影所に入所後も、衣装部の助手、カメラマンのアシスタント、エキストラなど様々な仕事を経て、俳優とコメディの脚本の執筆をします。1927年についに監督デビューし、ミュージカル・コメディをてがけて、1930年にギャング映画の『犯罪王リコ』で一流監督と目されるようになります。Little Caesarという原題のこの映画は、エドワード・G・ロビンソンをスターにし、ハワード・ホークス監督の『暗黒街の顔役』、ウィリアム・A・ウェルマンの『民衆の敵』と並んでギャング映画ブームのはじまりとなった。

 『暗黒街の顔役』(Scarface)の方は『仮面の米国』と同様にポール・ムニが主演。後に『スカー・フェース』としてアル・パチーノ主演、ブライン・デ・パルマ監督でリメークされます。『民衆の敵』はPublic Enemyという原題と、主演のジェームズ・キャグニー、相手役のジーン・ハーローともに有名です。

 さてルロイはその後も様々なジャンルの映画を手掛け、1932年オースターのエッセイで詳しく論じられる『仮面の米国』を監督して評判になります。主演のポール・ムニ演じるジェームズ・アレンは冤罪で過酷な刑務所体験をして、脱獄して社会的も成功するのですが、また刑務所に逆戻りしてしまいます。最後はまた脱獄して逃げ続けて行く。その刑務所の腐敗の描写が社会的にも強い影響を与えて、一部の州での非人道的な刑罰の撤廃につながったようです。

 そして多彩な活躍をしてきたルロイにアーヴィング・タルバーグを失ったMGMが後継者としてルロイを目を付け引き抜きます。タルバーグは伝説の映画プロデューサーで、フィッツジェラルドの『ラスト・タイクーン』のモデルになった人物でした。MGMに入社したルロイはマルクス兄弟主演の『マルクス兄弟 珍サーカス』やミュージカル映画の名作『オズの魔法使い』を制作して大成功を収めますが、また監督に復帰。1940年にこれもまた有名な『哀愁』(Waterloo Bridge)の監督もルロイだったんです。これは1931年の『ウォータールー橋』のリメークで英軍将校(ロバート・テーラー)とバレリーナヴィヴィアン・リー)の悲恋物語。これは日本の『また逢う日まで』や『君の名は』に影響を与えました。

 次はグリア・ガースン主演の『心の旅路』(1942)と『キュリー夫人』(1943)をヒットさせます。2作とも良妻賢母のイメージですかね。『心の旅路』(Random Harvest)の原作はジェームズ・ヒルトンで、これも映画化で有名な『失われた地平線』(1932)と『チップス先生、さようなら』の作家です。『失われた地平線』は1937年にフランク・キャプラ監督が映画にしていますが、1973年のミュージカル版もあります。この作品の架空のユートピアであるシャングリ・ラという名前が有名ですね。『チップス先生、さようなら』の方も、1939年と69年に映画化されていますが、こちらも69年版はミュージカル仕立て。この時代はミュージカルが流行ったのだろうか。ピ―タ―・オトゥ―ルがチップス先生を演じた事は覚えています。

 さて1949年にはMGM創立25周年を記念して、若手女優を起用して『若草物語』を監督します。ジューン・アリソンエリザベス・テーラージャネット・リーなどですが、これも前にブログで書いたんですが、『若草物語』って作られ続けるんですね。その時代の旬の女優を使って、ちょっとずつ時代の雰囲気を加えた4人姉妹の性格付けもあってか。

 ずいぶんと立派な、多彩な、映画史とも関わる業績なのでつい長くなってしまいましたが、そろそろ終わります。パソコンに向かって首も痛くなってきました。

 1951年の『クオ・ヴァディス』、これはタイトルと歴史劇である事は知っていました。例によって映画は見ていなくてもスチル写真などで知っています。これはポーランドノーベル賞受賞作家シェンキヴィッチの1896年(映画誕生の翌年です)の作品で、暴君ネロ治世のローマ帝国における軍人とキリスト教徒の女性の恋愛を描いています。

僕は『クオ・ヴァディス』というとすぐ『ベンハー』を連想してしまうのですが、こちらは1959年ウィリアム・ワイラー監督チャールトン・ヘストン主演の作品ですね。こちらも舞台は紀元1世紀のローマです。原作はなんと北軍の将軍ルー・ウォレス。しかも南北戦争のシャイローの戦いで評判を落とした失意の元軍人・政治家・作家が1880年に発表した作品が『ベンハー』。でもシャイローの戦いの時はウォレスは35才で最年少の将軍でした。しかも指揮する部隊の行動については、本当に失敗の責任があるかどうかは微妙の様です。

 さて歴史劇のあとは水着の女王エスター・ウィリアムズの『百万弗の人魚』(1952)というから何でも撮る。1955年には元のワーナー・ブラザーズに戻り、『ミスター・ロバーツ』(1955)を監督するのですが、これってヘンリー・フォンダ主演、ジョン・フォード監督ではないのか。ジャック・レモンが出ていたのを覚えています。これは見ました。ジャック・レモンがアカデミー助演男優賞を受賞した事は知らなかった。それよりも監督はジョン・フォード+マーヴィン・ルロイって?どうも演技を巡ってフォンダとフォードが意見が合わず、ルロイに後始末の役がまわってきたようです。

 もうそろそろ終わります。多彩な経歴と監督歴ですが、どうもいわゆる作家性には欠けているのかな。何でも撮れる職人的な監督。それもある程度以上の作品に仕上げる能力はあるので撮影所・映画会社にとってはとてもありがたい監督だったと思います。で後はそれほどの映画ないので、写真は何にしょうかなと。

 あのジーン・セバーグと2ショット。これは1966年の『その日その時』(Moment to Moment)撮影時のスナップのようです。ヘンリー・マンシーニ作曲、ジョニー・マーサー作詞の主題歌はシナトラで聞けるのかな。