監督の文才、俳優の演技

 山の手コートが強風なので、うちの方のコートに移動してテニス。

 その前に学会の提出物を出す。学会誌で書評をする本を事務局が作ったリストの中から選定するのです。評価とコメントを書くのに2週間ほどかかる。また図書館にもないものは自分で買いました。1冊4000円。その後は5月末にZoomで編集委員会があるのですが、全員僕より若く、研究業績もある人たちで、少しビビッています。Zoomの操作で発言をするときの挙手なども、支部では「どうやるんでしたっけ?」と気軽に聞けるけれど、本部レベルでは耄碌した年寄りとか思われたくないし。

 

 『ドライブ・マイ・カー』で受賞した濱口竜介監督の文才にびっくりしています。また小津本を読み直していますが、2016年の『ユリイカ』の特集「原節子と〈昭和〉の風景」に掲載された「『東京物語』の原節子」での「映画演技」と脚本からのセリフについての指摘がとてもいいです。

 「映画演技」の方は、舞台の演技とカメラの前の演技が、現実/写実/現実の再構成という視点から明晰に説明されていてスッキリします。演技は俳優が役の「フリ」をするわけで、それは役の仮想的な現実に対してあくまでの「フリ」なわけで、しかもカメラの前でカメラなどない「フリ」もしている。そんな俳優の演技と、それをカメラ越しに監督が演出/演技の指示と選択をする。その指示と選択が何回も、時に何十回も繰り返されていく。

 もう一つは『東京物語』の脚本に現れる紀子(原節子)像の分析。「いいえ」の人としての紀子という結論です。映像(ある意味でテキスト)の分析だけでなく脚本からセリフの解釈。もう一つ周吉(笠智衆)は「いやあ」の人です。これは何となく分かるでしょう。でも「いいえ」の方は少し説明が必要だと思います。いくつも例が挙げられていて説得力がありますが、ここでは一つだけ。

 とみ(東山千栄子)「紀さん、もう本当にかまわんでくださいよ」

 紀子「いいえ、何のお構いもできません」

これはもちろん相手の気遣いについて「そんな必要はありませんよ」という意味の「いいえ」です。でも本当に気遣いをしてほしくないのではなく、お互いに気遣いをしあう関係の上での応答である事は言うまでもありません。でも最後の方に有名な「わたし狡いんです」というセリフが出てきます。いろんな説明がありますが、戦死した(らしい)次男周二の嫁として、いつも夫のことばかり考えているわけではない。これからの事を考えると眠らないこともあると。それなのにいい嫁を演じる自分の狡さの事を言っている。

 そんな「狡さ」なんて誰でも持っているけれど、舅・姑に「紀子さんはいい人じゃ」と言われると、必ずしもそうじゃんないんですと言わないと、今度は偽善的になってしまう自分がいるということでしょう。たぶん紀子は周吉・とみの長男・長女よりはいい人間だと思います。三男(大坂志郎が大阪にいる三男を演じる)はまぁまぁ。尾道に両親と暮らしている次女(香川京子)はいい人。でもこれはまだ人生経験も少なく、狡くならなければ生きていけないという居面もないからとも言えます。生活で大変な場面で、狡くなく生きていこうとする姿勢が重要と裕福ではないけれど坊っちゃんだった老人は考えます。

 長女を演じる杉村春子はいつも通りうまい。あまり好きではないけれど。しかし長男の山村総は長女の険のある顔に比べると笑顔になりそうな余裕のある表情だけれど、振る舞いは長女と変わらない。尾道に帰った母の危篤を知らされた後の、飼い犬をよぶ演技などいい人のようで実は冷たい人間であることをとても巧妙に?演じていました。少し不気味でもあった。

 逆にいつも冷たい人物を演じる事の多い中村伸郎が長女の気弱で人のいい夫を演じて、これもうまい。『東京暮色』での最後で、北海道に妻(山田五十鈴)と流れていく列車の中でポケット瓶のウィスキーを飲むみじめさももう一つの中村伸郎の演技。これもうまい。新劇畑の俳優って演技の幅、役の演じ分けがうまい。