言語にとって美とは何か

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  学生時代に読んだ吉本隆明のタイトルを流用しましたが、本意は美ではなく善がポイントです。真善美ってプラトンで少し思い出しましたが、本当の事、善なる事、美しい事、それ(ら)が理想なんだと。で自分の優先順位でいくと、善~真~美。専門分野で行くと、研究者・科学者・学者は真、教育者は善、芸術家は美を追及するだろう。またはその組み合わせですよね。法律家は真と善、政治家は哲人王でないでしょうから、善が優先して真とのバランスを取る。

 A部首相の『美しい国へ』を評した故丸谷才一は「言いはぐらかしの多い人…言質を取られまいとする慎重さよりも、言うべき事が乏しいせいではないかと心配になった」と書いている。丸谷才一は的確にとらえていたんですね。第一、政治家が「美しい」という言葉を自著のタイトルに使うこと自体が言葉のセンスとしておかしい。真善美のうち真と善がないから美の方に走る?んだと思います。「桜を見る会」がどのように問題かどうかはともかく、「募ってはいるが募集はしていない」には本当に笑ってしまった。でもすぐに空しくなり、次にこれは本当に変だと少し不安になりました。

  あるブログで偉そうに?これはA部首相に知性がないのではなく、何かを隠蔽しようとして言い間違っているので、言語能力がないという非判は間違っていると書いてありましたが、そんな事はみんな分かっているよと思います。自分もブログで偉そうに書かないように自戒しました。すぐ、忘れるけど。何かを隠そうとして、狼狽えて言い間違う。誠意がないから慇懃になる。力がないから力強い言葉を多用する。

  言語にとって心とは何か。心がないから上滑りのメッセージが出てきて、人の心に伝わらない。

 写真はグランドカバーによく使われるリシマキア。西高ちかくの宮の森の住宅地を散歩している時に見つけました。たぶんこの後に、宮の森か円山でランチをしたと思います。