詩人とシベリア経験

 『荒地の恋』から詩誌『荒地』の詩人たち、そして戦後の詩について少し読んでいます。

 中心にいた鮎川信夫よりも少し年上の1915年生まれの(大正4年石原吉郎についても。一時期読んで影響もうけていました。大正4年というと母と同い年。その2年上の父も30近くなって戦争にとられ、2年もシベリアにいました。それでも大変だったと思いますが、石原吉郎はなんと8年もいた。その友人の鹿野武一は12年も。想像をを絶するような過酷な体験だったと推測するしかありません。父もほとんどシベリア抑留の事は話しませんでした。酔うとロシア語を口にする事はありましたけれど。

 石原は帰国した後、共産主義にかぶれたのではないかという疑いを親戚にもたれて絶縁しています。徳田球一が抑留からの帰還を遅らせるようソ連に要請したと言われる、いわゆる徳田要請問題もあったりして。1960年前後になりますがその事で、妻が精神的に不安定になり、さらに詩人本人もアルコール問題を抱える事に。最後も一人暮らしで、酔って風呂で亡くなりました。

 同様に11年もソ連の監獄(ラーゲリ)で過ごした内村剛介が北大にいたのにそのロシア文学の授業を受けたことはありませんでした。今になってみれば、教室の端っこにでも座って講義を聞きたかった。

 鮎川信夫(1920‐86)の最後の詩集『宿恋行』(1978年)の1篇「いまが苦しいなら」は「一日の業を終えて/眠るためには/誰でも赦さなければならない」という冒頭の詩句が親しかった石原吉郎の詩風と似ていて微笑ましい。でも石原の「死角」の「隠蔽するものの皆無なとき/すべては平等に死角となる/隠蔽ということの一切の欠如において/われらは平等にそして人間として/はじめて棒立ちとなるのだ」のような余分な言葉と想念が削ぎ落された詩は石原吉郎だけのものだと思います。

 月曜日にきた非常勤講師の依頼について、来年度は71才になるのですがそれでも大丈夫でしょうかという質問にまだ回答がきていない。回答の内容以前に、返信が遅いよなと憮然としています。でも一方で「アメリカ文学概論」の内容について考えてもいます。

嬉しいけど・・・

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土曜日に久しぶりに「酒とそば まるき」に。まぐろ(赤身)も卵焼きもどれも美味しかったです。〆に上鴨せいろ。普通の鴨せいろで良かったのですが、つけ汁のカモ肉+カモ肉のたたきが食べたかったので。値段はけっこう高いかも知れません。というか、客は中年・老年が多く、そのような客層をターゲットにしているような。最後に厨房にいる店主/料理人にご挨拶。

 きのう、北星のT先生から来年の非常勤の依頼が来ました。70才になるとうち(北海学園)は定年だけれど、北星はOKなのか確認ちゅう。「アメリカ文学概論」ができるのなら、準備が楽しみです。でも返事がない。前に北大の文学部から英文学史をやらないと言われ、年齢は大丈夫なのとこちらから確認したらやっぱりだめでした。また今度も。

大江健三郎~伊丹十三

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 12月の支部大会(アメリカ文学)の特別講演の司会になってしまった。適任というのではなく、他の役員はそれぞれ仕事はあるので分担という事で。で講師のH平先生はフォークナーとトニ・モリソンの専門家。そしてその二人のほかには大江健三郎が先生の文学体験である言うので、付焼刃的に勉強しています。

 実は高校の時に大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』(1958)に少し感動しました。その後はエッセイの『厳粛な綱渡り』(1965)や『持続する志』(1968)などを読んで、晩年のバッド・パウエルの事について知りました。小説は『万延元年のフットボール』(1967)まで読んで、個人的には卒業しました。

 『芽むしり仔撃ち』についてはあとから英文科に入って、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』(1954年)と少し似ているなと思いました。極限状況における孤立した少年たちの残酷な振る舞いとか、大人たちの身勝手さとか。『蠅の王』は1963年と1990年に映画になりました。『芽むしり仔撃ち』では疫病がはやって村人たちは子供たちを閉じ込めて他所へ逃げてしまうんです。それって、置いてけぼりをくらった弱者という点で、このコロナ禍の状況にも似ている部分もある。

 で、H平先生は1993年にトニ・モリソンに会った時に大江健三郎の事を話し、『万延元年のフットボール』の英訳を後から送る。その後、1995年のノーベル賞受賞者作家会議でモリソン(1993年受賞)と大江(1994年受賞)が出会ったようです。

 そして1996年に大江が客員講師としてプリンストンに招かれていた時、ペンシルヴァニア大学に講演に来て、客員研究員として英文科に在籍していたので僕も聞きに行きました。講演後、『万延元年のフットボール』の英訳Silent Cryにサインをしてもらい、一言二言話しました。

 その後、2010年に大江と伊丹十三が高校時代に出会った松山に出張で行ったときに「伊丹十三記念館」を訪れてみました。2007年に家を建てた時に設計を頼んだ建築家が高校の先輩。その知り合いの中村好文さんで記念館の設計をした人です。設計展のような催しで札幌に来ていた時に出かけて少し話をしました。その中村さんが宮本信子と記念館落成のニュースに出ていたので、松山に行くときに訪れようと思っていたんです。

 伊丹一三は1960年代前半ハリウッドの映画『北京の55日』(1963年)や『ロード・ジム』に出ていて、それについては映画雑誌で知っていました。その後、1965年に撮影の最中やポスト・プロダクションでヨーロッパに滞在した時について書いた『ヨーロッパ退屈日記』、そしてその後の『女たちよ!』で僕にとっては俳優としてよりもセンスのいいエッセイストとして記憶されます。

 今回のオリンピックで紹介されたボッチャや冬季のカーリングも元はフランスの球技ペタンクだと言われています。そのペタンクについて初めて知ったのが伊丹十三のエッセイ。パスタのアル・デンテも僕が初めて知ったと言うよりも日本で一般的に知るようになったのが、彼のエッセイでだと思います。

 マルチ・タレントというカタカナの日本語よりも、本当の意味でのmulti-talentedのような、レベルの高い多彩な才能の持ち主だなと思っていました。父親の伊丹万作が映画監督で知られていましたが、挿絵画家・随筆家としての肩書もあるんですが、十三もそれをそのまま引き継いでいます。さらに俳優やプロデューサー的な能力も追加して。

 映画監督として才能も評価しますが、題材がちょっとジャーナリスティック過ぎると言うか時流をキャッチしすぎるというかあざといなと。描き方も少し下品な時もあって、ジャーナリスティックな感性と、それを的確な文章で表現できる文才と、『遠くへ行きたい』のような本当の意味でのプロデューサーの才能があるように思います。残念な最後でしたが。

 写真はかみさんの誕生日のプレゼントの花束。

ゼミの思い出

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なぜか最近ゼミの事を思い出します。2010年から7年ほどゼミを担当しました。38年の大学教員生活のうち18年は教養部、その後3年は人文学部に居候、そのあと6年は経済学部に、最後の11年が人文学部。その人文学部にいた時に初めて専門演習を担当しました。

専門演習について。大学に入って、大学の学び方を教わる大学入門的な基礎演習もあります。それに対して学部・学科の専門を学ぶのが、3・4年生の演習です。英米文化学科で英文科ではないので、英米の文化(イギリス史や、キリスト教についてなど)を中心に担当者によっては文学をやってもいいと思います。僕は音楽や映画からアメリカ文化を学ぶと言うコンセプトでは履修希望者は多かったです。

 学生に履修希望について書いてもらって選抜すると、女子の方がきちんと書くので、女子学生が結果的に多くなりました。自分で選んだのですが、全員女子で少し緊張した時もあります。最初のゼミは基礎演習の時の受講生と、前の年にカナダの語学研修(3週間)で引率した学生とその他の学生でした。楽しかったように記憶しています。  

数人と時々会っていましたが、退職した2018年の4月にサプライズ・パーティをしてくれました。2名が会いましょうと言ってくれてレストランに行くと8名ほどが集まってくれて。すすきののラ・メーラ。時々話題にしているけれど、北海学園の卒業生がシェフのリストランテ。僕の英語の授業を受けたらしいです。しかも最近知ったけれど西高の後輩(20年くらい)。

 これはうまく行ったケースで、最後のゼミはうまく行きませんでした。最後の授業もどんな風に締めくくったか覚えていない。卒業時のコンパもしなかった。残念。でも4つはかなりうまく行った。2つはまあまあ。1つは失敗でした。学生の質というよりも僕のゼミ運営の能力の問題です。

 写真は本城ゼミ第4期2013年度卒業の学生と。今はないラフィラの屋上のビア・ガーデンにて。ゼミを早めに終えて、ヨサコイに出ているゼミ生を応援。その後のビールです。

スティングの『デュエッツ』を聞く

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スティングのコンピレーション・アルバムDuets(2021)を聞いています。人選がcolor blindでgenderも意識している。color blindというのは色盲ではなくて、肌の色に偏見を持っていないという意味です。余計な説明かも知れませんが、Gimsはコンゴ出身のフランスのラッパー、Shaggyはジャマイカ出身のアメリカのラッパー。Gashiはリビア出身。Zuccheroはイタリアのシンガー・ソングライター。Joe Lawryはオーストリアの女性歌手。そして懐かしいSam & DaveのSam Moore。

 1993年のTen Summoner’s TalesからのShape of My HeartをモチーフにしたRise & Fallがいい。イギリスのシンガー、クレイグ・デヴイッドとのデュエット。クレイグは父親がカリブ海の出身、たぶん黒人。

 そして1999年のBrand New DayからDesert Rose。ここではアルジェリアのシェブ・マミと。これは中東風の楽曲として魅力的です。1990年代のスティングはけっこうCDを買って聞いていました。

 スティングは格好いいおじさんだったけど、ふつうのお爺さんのようになったように見えます。俳優でも50代にかっこういい女性だったけど、60代になるとちょっとエキセントリックなおばさんになってしまった夏木マリ(僕と同い年です)。藤竜也は60代まで格好良かったけど・・・年を取ると目が小さくなるのか、ひっこむのか、目の力がなくなってしまうように思えます。

 Duets絡みで聞いていたEurythmicsのAnnie Renox。Here Comes Rain Againをピアノを弾きながら、皮のコートとパンツで歌っていたのが40代の終わりか。かっこういい。でも現在の60代半ばの写真ではふつうのおばさんに見えて。自分の事を省みると何も言えないので、それは無視して。

 でも年を取っての内面的な成熟と外見は一致するのだろうか。また様々な経験を積んでも、身につかない人も多いと思います。僕は経験とも内面的な成熟とも無縁な老人になってしまったように思えて。

ふたたび

 土曜日にまた知事公館の紅葉を見に行きました。残念ながら先週の方がきれいでした。

 でまた近代美術館の2階で休憩。その後、かみさんの実家によって貰い物を受け取り、かみさんはまたお姉さんの自転車を借りて山の手ラッキーに買い物へ。僕はバスで帰宅。

 日曜は支部学会がZoomであり、仲間のシンポジウムもあったので、参加する予定だったのですが体調が思わしくなく失礼しました。

 月曜は午前中テニス。13名も集まりました。

 今週は6週間ぶりに病院で血液検査。

 写真は近美の正面のイチョウです。

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老人とテニス

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 Kさんがアキレス腱を切った。

 Eさんがボールを踏んで捻挫をした

 それを聞いている僕も肩の筋肉を断裂した

 みんなもう年なんだから無理をしないで楽しみながら

 のんびりボールを追えばいいんだ そうだねと言いながら

 Tさんは強烈なサーブを放った

 年を取っても体を動かすのは気持ちがいい

 爺さん、婆さんが楽しくプレイをしています

 でもたまには若い女性も来てくれればいいな

 とは言ってもそんな事は起きないから

コートの周りの紅葉をめでていればいい

 いつまでできるか できるまでやればいい

 そう思いながらラケットを持ってコートに向かう

 後のビールのためにやっているんだけれど、テニスも楽しい