大江健三郎~伊丹十三

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 12月の支部大会(アメリカ文学)の特別講演の司会になってしまった。適任というのではなく、他の役員はそれぞれ仕事はあるので分担という事で。で講師のH平先生はフォークナーとトニ・モリソンの専門家。そしてその二人のほかには大江健三郎が先生の文学体験である言うので、付焼刃的に勉強しています。

 実は高校の時に大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』(1958)に少し感動しました。その後はエッセイの『厳粛な綱渡り』(1965)や『持続する志』(1968)などを読んで、晩年のバッド・パウエルの事について知りました。小説は『万延元年のフットボール』(1967)まで読んで、個人的には卒業しました。

 『芽むしり仔撃ち』についてはあとから英文科に入って、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』(1954年)と少し似ているなと思いました。極限状況における孤立した少年たちの残酷な振る舞いとか、大人たちの身勝手さとか。『蠅の王』は1963年と1990年に映画になりました。『芽むしり仔撃ち』では疫病がはやって村人たちは子供たちを閉じ込めて他所へ逃げてしまうんです。それって、置いてけぼりをくらった弱者という点で、このコロナ禍の状況にも似ている部分もある。

 で、H平先生は1993年にトニ・モリソンに会った時に大江健三郎の事を話し、『万延元年のフットボール』の英訳を後から送る。その後、1995年のノーベル賞受賞者作家会議でモリソン(1993年受賞)と大江(1994年受賞)が出会ったようです。

 そして1996年に大江が客員講師としてプリンストンに招かれていた時、ペンシルヴァニア大学に講演に来て、客員研究員として英文科に在籍していたので僕も聞きに行きました。講演後、『万延元年のフットボール』の英訳Silent Cryにサインをしてもらい、一言二言話しました。

 その後、2010年に大江と伊丹十三が高校時代に出会った松山に出張で行ったときに「伊丹十三記念館」を訪れてみました。2007年に家を建てた時に設計を頼んだ建築家が高校の先輩。その知り合いの中村好文さんで記念館の設計をした人です。設計展のような催しで札幌に来ていた時に出かけて少し話をしました。その中村さんが宮本信子と記念館落成のニュースに出ていたので、松山に行くときに訪れようと思っていたんです。

 伊丹一三は1960年代前半ハリウッドの映画『北京の55日』(1963年)や『ロード・ジム』に出ていて、それについては映画雑誌で知っていました。その後、1965年に撮影の最中やポスト・プロダクションでヨーロッパに滞在した時について書いた『ヨーロッパ退屈日記』、そしてその後の『女たちよ!』で僕にとっては俳優としてよりもセンスのいいエッセイストとして記憶されます。

 今回のオリンピックで紹介されたボッチャや冬季のカーリングも元はフランスの球技ペタンクだと言われています。そのペタンクについて初めて知ったのが伊丹十三のエッセイ。パスタのアル・デンテも僕が初めて知ったと言うよりも日本で一般的に知るようになったのが、彼のエッセイでだと思います。

 マルチ・タレントというカタカナの日本語よりも、本当の意味でのmulti-talentedのような、レベルの高い多彩な才能の持ち主だなと思っていました。父親の伊丹万作が映画監督で知られていましたが、挿絵画家・随筆家としての肩書もあるんですが、十三もそれをそのまま引き継いでいます。さらに俳優やプロデューサー的な能力も追加して。

 映画監督として才能も評価しますが、題材がちょっとジャーナリスティック過ぎると言うか時流をキャッチしすぎるというかあざといなと。描き方も少し下品な時もあって、ジャーナリスティックな感性と、それを的確な文章で表現できる文才と、『遠くへ行きたい』のような本当の意味でのプロデューサーの才能があるように思います。残念な最後でしたが。

 写真はかみさんの誕生日のプレゼントの花束。