誤解と反省

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  ごかい
【誤解】

「ある事実について、まちがった理解や解釈をすること。相手の言葉などの意味を取り違えること。思い違い。「―を招く」、「―を解く」(デジタル大辞泉

 菅さんが控えてほしいと国民に訴えていた5人以上の会食を自分がした事が発覚した。それも政治上必要な集まりならまだしもタレント・俳優・元スポーツ選手がメンバー。たぶんキング。メーカーの二階がいたので断れなかったのだろうけれど。

 問題はもう一つあって謝罪の言葉の中に「国民の誤解を招くという意味では、真摯に反省している」とあり、気になりました。多くの人も気になったようです。たぶん菅さんは「5人以上の集まりだったけれど、感染には十分に注意した」ので、「感染を気にしないで集まった」と誤解されたかもしれないと考えたのでしょう。でもある人数が集まると、感染に注意しても可能性が増えるので5人以上は控えるようにとなったのだと思います。

 つまり国民は誤解をしていない。それなのに加藤官房長官は記者会見で首相の「誤解」の意図を繰り返し問われ、「そこに留意するよりも、むしろ・・・・首相が大いに反省しているとおっしゃっている。まさに、その気持ちが全てではないかと思う」と説明をしたようです。でも「その気持ちが全て」と言われても、反省の弁に「国民が誤解している」と言っているので、どこが全てなの?と反論されても仕方がない。

 「ご飯語法」の安部首相の時に、菅官房長官は「門前払い」と言われていました。拙いけれど「ご飯語法」の方には言い抜けようとする気持ちがあるのに、「門前払い」は問答無用、何も説明しないで一方的な報告で終わる。今回も「誤解=間違った理解や取り違え」という相手(国民)にちょっとだけども非を押しつけるような言葉を使ってしまいました。本人に悪意はない、無意識だろうけれ、そのような言葉を使う意識の理由は現在ではよく知られています。

  つまり潜在的に自分の非を認めていないのとセットで相手が悪いと考えてしまう。残念ながら自分の心の中をちゃんと理解して、その上で他者の気持ちを理解しようとうするコミュニケーションの基本ができていない。だから相手に届く言葉を持っていない政治家なのでしょう。政治家は理念を言葉にして、その言葉で人(国民、仲間の政治家、官僚)を動かすのですが、それがない。前の首相よりももっと悪いかも知れない。

愛を壊して愛を知ること

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   まだ『檻の中』の勉強が続きます。

 土曜日のシンポで、たぶんヘンリー・ジェームズの研究者だと思われる参加者が『千のプラトー』が『檻の中』についてふれているというコメントがあり、この研究者がけっこう鋭く、時に面白い発言をするので刺激を受けてアマゾンで買ってみました。

 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリという哲学者のコンビはポスト構造主義の代表的な論客で1980年代には『アンチ・オイデプス――資本主義と分裂症』の訳が出た時には買いました。あまりちゃんとは読まなかったけど。で1990年代に出た続編とも言える『千のプラトー――資本主義と分裂症』の頃は僕的にはブームは終わっていたのか買っていませんでした。

 で単行本で6千円くらい、文庫は3分冊で1冊1500円くらいです。ネットでも翻訳のテキストは参照できますが、買って読みたいと思い、上中下巻のうち該当する中巻を購入。そして該当部分を読むと、何とこの高名な哲学者の読みが間違っている事に気づきました。女主人公の婚約者は以前は郵便局と隣接していた雑貨屋に勤めていましたが、昇進して別な地区に勤務しています。それが今でもすぐ隣の雑貨屋で働いている解釈になっています。そして電報局という解釈も少し違うかな。正確には郵便局の中に電報を担当する技士がいて、他の局員はカウンターでは切手を売ったりしています。電報局ではなく、雑貨屋に隣接する郵便局の、さらにパーティションで仕切られた電報発信用のブースを「檻」と主人公は意識します。そこから物理的には自由に出られますが、社会的・階級的・心理的にはそこに閉じ込められているという事になります。

 これは支部大会の報告でもふれましたけれど、フランスはイギリス小説の翻訳は、その逆ほど盛んではない。するとドゥルーズ=ガタリは真面目に英語で読んで、抽象的に論じる点では鋭い指摘はできるけれど、ざっと読むので細部については読み間違いをしているよう思えます。『檻の中』に次ぎにフィッツジェラルドの「崩壊」を論じていますが、こちらの方はジェームズ程難しい英語ではないし。

 でもタイトルにした「愛を壊して愛を知ること」というこの二人の哲学者が使っているフレーズにしびれました。さすがフランスの哲学者の詩的な表現だと。電報技士である女主人公の、上流階級への妄想的な愛は終わり、平凡な安定した結婚を選びます。でもそれは失敗とか敗北ではなく、自分のそれまでの自我をいったん壊して、真の自分に出会う事でもあったと。

 写真は最近アマゾンで注文したハービー・ハンコックのTakin' off。秀才的なピアニストで特に好きなわけではありませんでしたが、初期の数枚を聞いているとやはりうまい。先輩の管楽器をたてて、かつ自分のソロの部分も秀逸である事を再確認しました。

 先輩のビル・エバンスマッコイ・タイナー、後輩のチック・コリアキース・ジャレットの狭間でやりずらかっただろうなと思います。

Zoomの支部大会

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 8月くらいまでは対面の支部大会も可能かなとも思っていたのですが、Zoomにして正解でした。こんな第3波まで延長して拡大するとは暢気な僕は考えませんでしたから。

 アメリカ文学会会長の京大名誉教授水野先生を迎えての特別講演とシンポの2本立てです。

 2時開始ですが1時半からZoomに入れるか確認。支部執行部だけでなく講師の水野先生も自宅で操作の確認をしていました。後ろに奥様や猫ちゃんが見えてほほえましい。特別講演がヘンリー・ジェームズとプルーストの関係、シンポジウムがヘンリー・ジェームズの『檻の中』をめぐってなので、ジェームズ関係の研究者の人たちも参加して盛会。

 さて松井支部長の開会あいさつと司会で講演が始まりました。ジェームズは年下のプルーストの作品に関心を持って激励の手紙も出したらしいです。結婚をしなかったという経歴(セクシュアリティ?)にも共通性があって、詳細な叙述の仕方も芸術家らしい作家と思います。講演後に心理小説の歴史が長いフランスの文壇(があるとして)はジェームズをどう評価したかを聞いてみました。すると予想とおりフランスの小説の英訳はすぐ出るけれど、英語の小説の仏訳は多くない。評価については今後の研究の課題と言う回答をいただきました。やはり中華思想のフランスは他国の文学にはあまり関心がない(ようなふりをする)。

 でも第2次大戦終了間際のフィルム・ノワールなんかはアメリカの通俗小説(ハードボイルド)をフランス語に訳し、同時期にその映画化も輸入して、それがヌーベル・ヴァーグにも影響を与えたので、ポピュラー・カルチャーに関してはアメリカに関心があったと思います。

 さてシンポの発表も面白かったです。貸本のロマンスを愛読する電報通信士の若い女性の、上流階級への羨望が、過剰な想像力から妄想へと暴走して、始終で郵便局に現れるハンサムな大尉に憧れます。彼の恋人(上流階級の婦人)との電報のやり取りに関わり、大尉のアパートの周りをうろついて彼と遭遇し、公園のベンチで語るようになります。これは現在ならストーカーかな。この大尉は実はギャンブルで借金をしていて、不倫中の恋人の夫が亡くなって、未亡人と結婚する事で経済的に一息をつく事になります。

 その間、安定した結婚を約束する許婚に結婚を迫られていましたが、大尉の結婚を機に、そして年上の友人で上流階級に生け花のデコレーションを提供する未亡人の上昇志向の行く末も見てしまった主人公が結婚を決意する場面で物語りは終わります。結局この若い女性電報技士は無意識にこのような結末を知っていて、でも想像力の暴走をあえてしていたようにも読めます。作者もこのようなちょっと皮肉っぽく、でも突き放したようでもない、曖昧ででもホッとするような着地を用意したのでしょう。

 フロアからのコメントで、哲学者のジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの『千のプラトー』に『檻の中』の分析があると聞かされて、先ほど気になってアマゾンで注文しました。けっこう『檻の中』が気に入りました。

シーズン最後

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 木曜日の朝テニス仲間からまだネットが張っているコートがあると誘われて発寒青空コートにその仲間の車で拾ってもらって行きました。金曜日は自分の自転車で15分、約4キロくらいかな。10時から12時半まで7名で。予報ではもう最後のようなので「今年もお世話になりました。来年も宜しく」と挨拶をして別れる。

 今日の午後はアメリカ文学の北海道支部大会がZoomでありますが、その報告は明日にでも。

 最近は北アイルランド出身のエイドリアン・マッキンティの『ガン・ストリート・ガール』(2010年10月、ハヤカワ文庫)を読みました。北アイルランドカソリックの刑事ショーン・ダフィが主人公の4作目。北アイルランドの警察官はプロテスタントが主流で、反イギリスのカソリックの住民からも裏切者扱いされるつらい立場の一匹狼的刑事です。読み直して3作目の『アイル・ビー・ゴーン』の方が良かったかな。

 ワイオミングの猟区管理官ジョー・ピケット・シリーズの12巻目『発火点』(2020年6月、講談社文庫』)は注文して届くのを待っています。その間第2巻目の『逃亡者の峡谷』が電子書籍でのみの出版なのでこれも注文してすぐに手元のKindleに届きました。支部大会が終われば読もうと。これはipad miniに入れました。ipad miniはもっぱら電子書籍の読書用。

 もう一つ『The 500』でデビューしたマシュー・クワークの『ナイト・エージェント』(2020年11月、ハーパー・ブックス文庫』)も注文。これはロバート・レッドフォードの映画で有名な『コンドル』と設定が似ていて興味がわきました。

 写真は公園のナナカマド。青空と白雲がバックでとてもきれいでしたが、写真では難しい。

「ねじの回転」の意味

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   ヘンリー・ジェームズの『ねじの回転』(1898)はオペラや映画になっているので有名です。特に『妖精たちの森』(The Nightcomers, 1971)が僕らの世代ではマイケル・ウィナー監督のせいもあり知っています。このイギリスの監督はバート・ランカスターの保安官もの『追跡者』(1971)、チャールズ・ブロンソンの殺し屋『メカニック』(1972)、アラン・ドロンの殺し屋『スコルピオ』(1973)、そしてまたブロンソンで自警主義が問題になった『狼よさらば』(1974)で世代に限らず、映画ファンに知られた監督でした。

 さて『ねじの回転』は原題がTurn of Screwで確かに直訳すれば「ねじの回転」にもなりますが、これでは何の事か分からない。『檻の中』を訳したヘンリー・ジェームズの専門家も「『ねじの回転』という不可解な日本語訳の題名がいつのまにか定着してしまった」と嘆いています。しかしこの『檻の中』を訳した専門家の訳と解説はもちろんとても参考になりますが、少しピントがずれているようにも思いました。と言うのも「ねじの回転は」はもう少し意味をくみ取って「ねじの一ひねり」、そして「話のひねり」とすれば分かりやすい。

 「話のひねり」の方は、物語を紹介するダグラスと聞き手も使っていて、ダグラスの40年前の知り合いの女性が家庭教師となった時の物語を語る前説で、これって額縁小説と枠小説とか言われるジャンルです。中心の物語の外枠として物語の由来が語られます。メインの物語が絵で、それを縁取る額縁が前説や物語の由来の説明になる。日本の『百夜物語』や『カンタベリー物語』のように順番に語り継ぐタイプ。『千夜一夜物語』(『アラビアン・ナイト』)のように王様のために一人のひと(王妃)が語り続けるタイプ。そして『フランケンシュタイン』のように北極探検隊の隊長が偶然フランケンシュタイン博士を見つけて、その物語を姉に手紙で語る書簡体小説でもあるタイプ。

 で『ねじの回転』は百夜物語のように複数の人が自分の知っている怪奇譚を話すように見せて一人の語り手の物語で終わる中編小説です。そして子供が幽霊を見るという点が「ひねりが効いている」と語られます。それも兄と妹が美少年、美少女で、その伯父から家庭教師を依頼された20才の若い女性が前の家庭教師と下男の幽霊から子供たちを守る。その家庭教師と下男の物語が『妖精たちの夜』で実は前日譚。それも前の家庭教師と下男を殺したのは少年であると言う設定です。

 やはりヘンリー・ジェームズの心理描写は細かすぎて読みずらい。そしてよく分からないタイトルだった「ねじの回転」は「話のひねり」であると理解した上で、大人の男女の愛、子供たちの稚拙で残酷な模倣、階級の格差と抑圧が描かれていて、それらが「ねじの回転」によりさらに深間に、深刻な悲劇的な状況に落ち込んで行く事が表現されているように思えました。つまりTurn of Screwは「話のひねり」であると同時に、「ねじの回転」で物語を下降させるドライブであると。

 写真は2階の窓から見た冬の夕暮れの景色です。

ジョン・ヒューストンの息子

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  アメ文(アメリカ文学)研究仲間のO教授のブログにジョン・ヒューストンの『王になろうとした男』についてふれられていて、数日前に息子のダニー・ヒューストンの『エンド・オブ・ステーツ』(2019)を見てちょっと書きたくなっていたので。

 『エンド・オブ・ステーツ』の方は、ちょっとしまりのない体形と風貌になっているジェラルド・バトラー主演のアクション映画で、ダニーはその敵役。最初に気になったのはメル・ギブソン主演の『復讐捜査線』(2010)でやはりダニーは敵役。けっこう憎々し気な顔なんですね。父のジョンやお姉さんのアンジェリカを見てもかなり個性的な風貌だし。

 でもこのダニーはヴァ―ジニア・マドセンと一時期結婚していました。これは僕的には高ポイントになります。ヴァ―ジニア・マドセンは、これも憎々し気なマイケル・マドセンの妹で、若い時の『スラムダンス』(1987)とか中年になっても『サイドウェイ』(2004)で魅力的でした。後者は日本でもリメークされました。

 写真は20代後半の幸せな時の二人。ダニーは現在59才ですが、けっこう癖のある風貌になっていて、若い時の中途半端な二枚目顔よりもいいかも。そう言えば『エンド・オブ・ステーツ』でジェラルド・バトラーの父親役がニック・ノルティでおじいさんになっていました。79才。

師走の日々

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 11月29日(日)にライブの楽しい時間を過ごしましたが、翌月曜日も穏やかな天気で午後テニスをやっている人もいました。でも翌日から雪の予報があったので、夕方ネットを外す。すると12月1日(火)の朝は雪が軽くですが積もっていて、ベストのタイミングでコートを閉鎖しました。これは市営のコートごとに違うようで、その場所の雪の積もり方、使用頻度、管理責任者(ボランティアです)の判断です。

 12月1日は9年前に亡くなった岳父の祥月命日で娘たちは実家でお坊さんをよんで小規模な法事。長女の夫が心臓のペースメーカーの手術をするよう。昼近くに円山クラスで待ち合わせて、以前は中華~ラーメン屋をへてトラットリアになったお店にトライ。これが味はともかく、店主の接客がよくなかった。

 12月2日テニス仲間の訃報がとどく。70代前半かな。去年も二人。お洒落な髭の温顔が目に浮かびます。

 12月3日は週1の買い物・ランチ。丸井でミニ・マフラーを物色。これは丸首セーターに巻いて家でも使えます。昼はチャイナ・パーク。食後は夕食のために南2条西19丁目のとんかつの屋方に。地下鉄の18丁目で降りて、なぜかけっこう迷いました。見つけたお店は清潔で店主も感じがいい。円山のトラットリアとは大違いです。

 一日数時間はヘンリー・ジェームズの『檻の中』と格闘。これが英語の読める研究仲間もてこずっている(らしい)。A5版で解説も含めると130頁もあるので、図書館にこの本がある仲間にコピーを頼むと60枚にもなるので、お願いしなくてよかった。

 1898年の作品なのでヴィクトリア朝のリアリズムの最後というよりもモダニズムの先駆けのような中間話法を使った、しかも心理小説の大家の作品です。という事はストーリーや会話よりも、微妙な心理の綾をこれでもかと言うように掘り下げていきます。けっこう高かった(出費にこだわっています)けど、翻訳を手に入れてよかった。

 でも面白い。難物に挑戦する事だけでなく、電報係の女性の妄想と、階級の格差、男女の恋愛の駆け引き、結婚の経済的な意味など小テーマは多岐にわたっています。しかも電報って依頼者と受け取り手は内容のフル・テキストとコンテキストを知っているけれど、電報を打つ人にとっては暗号のようなものです。で普通は仕事としてそれをこなすのですが、主人公の女性はハンサムな大尉の電報の意味を読み解こうとして、それが彼女の職場の同僚や年上の友人、そして結婚を迫る許婚、アル中?の母親などの現実からの逃避でもある。まだ結末まで行っていません。

 写真は8年前の10月半ばのうちのテニス・コートです。