愛を壊して愛を知ること

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   まだ『檻の中』の勉強が続きます。

 土曜日のシンポで、たぶんヘンリー・ジェームズの研究者だと思われる参加者が『千のプラトー』が『檻の中』についてふれているというコメントがあり、この研究者がけっこう鋭く、時に面白い発言をするので刺激を受けてアマゾンで買ってみました。

 ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリという哲学者のコンビはポスト構造主義の代表的な論客で1980年代には『アンチ・オイデプス――資本主義と分裂症』の訳が出た時には買いました。あまりちゃんとは読まなかったけど。で1990年代に出た続編とも言える『千のプラトー――資本主義と分裂症』の頃は僕的にはブームは終わっていたのか買っていませんでした。

 で単行本で6千円くらい、文庫は3分冊で1冊1500円くらいです。ネットでも翻訳のテキストは参照できますが、買って読みたいと思い、上中下巻のうち該当する中巻を購入。そして該当部分を読むと、何とこの高名な哲学者の読みが間違っている事に気づきました。女主人公の婚約者は以前は郵便局と隣接していた雑貨屋に勤めていましたが、昇進して別な地区に勤務しています。それが今でもすぐ隣の雑貨屋で働いている解釈になっています。そして電報局という解釈も少し違うかな。正確には郵便局の中に電報を担当する技士がいて、他の局員はカウンターでは切手を売ったりしています。電報局ではなく、雑貨屋に隣接する郵便局の、さらにパーティションで仕切られた電報発信用のブースを「檻」と主人公は意識します。そこから物理的には自由に出られますが、社会的・階級的・心理的にはそこに閉じ込められているという事になります。

 これは支部大会の報告でもふれましたけれど、フランスはイギリス小説の翻訳は、その逆ほど盛んではない。するとドゥルーズ=ガタリは真面目に英語で読んで、抽象的に論じる点では鋭い指摘はできるけれど、ざっと読むので細部については読み間違いをしているよう思えます。『檻の中』に次ぎにフィッツジェラルドの「崩壊」を論じていますが、こちらの方はジェームズ程難しい英語ではないし。

 でもタイトルにした「愛を壊して愛を知ること」というこの二人の哲学者が使っているフレーズにしびれました。さすがフランスの哲学者の詩的な表現だと。電報技士である女主人公の、上流階級への妄想的な愛は終わり、平凡な安定した結婚を選びます。でもそれは失敗とか敗北ではなく、自分のそれまでの自我をいったん壊して、真の自分に出会う事でもあったと。

 写真は最近アマゾンで注文したハービー・ハンコックのTakin' off。秀才的なピアニストで特に好きなわけではありませんでしたが、初期の数枚を聞いているとやはりうまい。先輩の管楽器をたてて、かつ自分のソロの部分も秀逸である事を再確認しました。

 先輩のビル・エバンスマッコイ・タイナー、後輩のチック・コリアキース・ジャレットの狭間でやりずらかっただろうなと思います。