タイパの陥穽(かんせい)

「タイパ」って最近目にするようになりましたが、「コスパ」から来た和製英語のようです。cost performanceならぬtime performance? Performanceは「成果」かな?

それで時間対効果を優先する功利主義、実利主義、成果主義の精神的な貧しさをそこに見てしまう。

 僕は文学研究をしてきたので、利益とか効率とかの真逆の文学の、それも関心のない人にとっては意味のない?事をやってきたと言えます。そんなに卑下をしなくてはと思いつつ、勤めてきた大学も経済学部や法学部が中心だったので、教養の英語を教えながら、自分の研究は文学だったわけです。

 タイパの真逆の事を50年近くやっていたので、常に「利益」や「成果」への疑問と嫌悪感を抱いていました。何という世間知らずの若者~中年~老人だったのでしょう。そして人文学部の学生に文学って「今すぐ役に立つ訳ではないけれど、いつか役に立つ」と教えていました。でもそこでも「役に立つ」と言っている事にも疑問も。いまでは「役に立たなくてもいい」と言えますが。

 ただ文学や芸術に触れて「生きる力を与えられた」とか言われると、「役に立つ」事に近いのかも知れませんが。昨日も院生の論文を読んで、人間の死≒動物(昆虫)の死の等価性とか、人間の特権的な位置づけへの無効化とか、常識の逆説とノンセンス≒意味の反転とか、読んだり考えたりすると面白い。院生はこれでPerformance(業績)になり、できれば大学の教職に就きたいのでしょうが、退職した老人のいい知的刺激になっています。

 文学って、哲学のように抽象化する前の、様々な人間的な営為も描いて、でもある時にある種哲学的な考察にも向かうところが好きですね。タイパとは無縁です。でもそれでいいとも。

  写真はジャクソン・ポロックの「秋のリズム」。