ポール・オースター 追悼その2

追悼の2回目は、NY三部作について。

これは30年前の論文ではなく、3年前に院生の発表の司会をした時に、準備と言うか自分の(楽しい?)勉強としてブログに書いたものを編集して再録しています。

『シティ・オブ・グラス』と発見

 クィンという主人公はかつては文学的な野心があったが、今はウィリアム・ウィルソンという筆名でミステリーを書いている。文学的な作品が「書けない」という点で、メルヴィルの「書記バートルビー」を連想するのは僕だけではないでしょう。当然と言うか後半に、メルヴィル自身が忘れられた作家として税関職員をしている事もふくめて言及がありました。

 さてクィンのミステリー観は挫折した文学観と微妙に連動している。例えば作者と探偵は入れ替え可能と言うのはずいぶんとミステリーの探偵を軽く見ているような。でも可能か。クィンにとって、私立探偵private I(プライベート・アイ)のIはinvestigatorの Iであるだけでなく、その発音の類似から作者の物理的なeye(アイ)でもあるという。その通りですね。探偵とは目で見る人、観察する人、時には窃視する人の事である。しかしクィンはウィリアム・ウィルソンの書く探偵ワークに自分の生を重ねて生きる。

 物語は間違い電話から始まるのだが、その電話はポール・オースター探偵事務所と間違えてかけてきたものである。オースターは物語内物語を技法上でよく使うけれど、名前についても同様で少しややこしい。

 もちろんウィリアム・ウィルソンはポーの同名短編で分身の物語。むかしアラン・ドロンで『世にも怪奇な物語』(1967)というオムニバスの1篇で「影を殺した男」(ルイ・マル監督)という映画になりました。変な映画だった(ような)。分身もまたオースター的なテーマの一つですが、分身ならぬ本人(ポール・オースター)も登場します。監視していた人物に逃げられたクィンは冒頭の間違い電話のポール・オースター探偵事務所を探して見つからず、探偵ではないポール・オースターを探して訪ねます。

 さてこの小説のポール・オースターは作家で奥さんはシリ、息子はダニエルとそのまんま。しかも奥さんは魅力的で、子供は可愛らしい。クィンは妻と息子を亡くしていて、この小説中のポール・オースターの幸せな状況とは大違いです。でもこの小説中のポール・オースターはクィンの挫折する前の詩集を読んでいて評価するので少しよかった。

 そして動向を監視するよう依頼された人物を待って、グランド・セントラル駅でナンタケットが写っている宣伝写真を見て、亡き妻と行った事を思い出すとともに、メルヴィルまで連想が働くのは作家の故だろう。それももう読者もいない老作家が税関で働いている。さらにクィンの眼にはバートルビーが労働拒否をする事務所の窓と、その前に立ちはだかるレンガの壁が見える。

 しかしクィンは監視に失敗して依頼人を失い、ノートを残して消えてしまった。そのノートをポール・オースター依頼人の家で見つけて、友人の作家(この物語の語り手)に渡して、その作家が書いたのが『シティ・オブ・グラス』という訳です。あ、これも額縁小説ですね。そして「書く事」が「書けない事」も含めて最初のクィンが書けない作家であると同時に書く作家である事、途中カットして、語り手がこの物語を書く事など遍在します。後は消滅というテーマ、依頼人である息子と父親の関係。物語中の(そして本物も)ポール・オースターの幸せな家族とクィンの家族の不在など。

 

『幽霊たち』と分身

 主人公の探偵ブルーは自分の好きな映画『過去を逃れて』について「過去からは逃れられない」と考える、その事が全体を通底するペシミスティックな物語だ。

 映画の主人公のジェフ・マーカム(ミッチャム)は過去に追いつかれたと考える。『過去を逃れて』はファム・ファタールによる裏切りの物語です。ジェフは1回裏切られた後、名前を変えてひっそり暮らしています。しかしもう一度ファム・ファタールに誘われ、最後に彼女に殺されたのか、警察の一斉射撃で死んだのかあいまいな最期を遂げます。

 ここでは自分の過去から逃れられないという『過去を逃れて』のテーマをおさえておいて、『幽霊たち』に戻ります。探偵ブルーはホワイトに依頼されて、ブラックという人物を監視します。場所はブルックリン・ハイツ。ブラックのアパートの通りをはさんだところにホワイトが部屋を手配してくれます。しかしブラックは何かを書いたり、ソローの『ウォールデン』を読んでいるだけで何もしない。ブルーは報告書を書く事ができない。

 監視を続けて1年半がたち、ブルーは思い切ってブラックに会う。そこでブラックが語った物語は、自分は私立探偵で一人の男を見張っているけれど、相手は見張られているのを知っていると。立ち去ったブラックの部屋に忍び込んで机の上の書類を盗んでみるとそれは自分の書いていた報告書だった。

 ブラックは明らかにブルーの分身と言えます。分身は文学ではドイツのドッペルゲンガーが有名で、19世紀の都市化と個人の意識の高まりとともに現れたと考えられます。前もふれたポーの短編「ウィリアム・ウィルソン」、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、R・L・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』などですね。

 これが現代文学アイデンティティの意識というか探究と分身の問題が重ね合わされてきます。それとフロイト的には超自我に抑圧されたもうオルタ―・エゴの発現など。多重人格の物語が小説や映画になったのも1960年代から70年代だったように思います。

 また1980年代に前にもふれた一人の人間に複数のアイデンティティがあってもいいのではないか、統一されたアイデンティティとのは古いという考え方も出現します。つまり多重人格とは異なる、こう言っていいかどう微妙ですが、病理とは異なるポストモダン的な個人の普通のあり方でもあるというか。そして1990年代から2000年にはアイデンティティの頸から脱しようという脱アイデンティティという考え方があるようで、ここらあたりで僕はギブアップしました。興味がある人は上野千鶴子編『脱アイデンティティ』(勁草書房、2005年)を参考にして下さい。

 ただ脱アイデンティティというのも統一的な単一のアイデンティティを社会が要請したり、国家的に利用されたりする事への抵抗という部分もあるから、人が暫定的に緩やかに一つのアイデンティティを確保して、その周りに複数の仮説的な小アイデンティティがあればいいのではと思いますが。

 『幽霊たち』に戻ると、ここでの分身は抑圧したもう一つの自己というよりは、コピーのような、クローンのような、取り替え可能な自己のようにも思えます。ブラックはブルーその2だった。そしてブラックが消えても、ブルーがいなくなっても、ブルーその3、その4と、個性やアイデンティティとは無縁なノッペラボーな探偵が登場する。それはもう探偵もでもなく、「幽霊」のような、影のような存在でしかない。

 

失踪/消失/逃亡@オースター

 三部作の最後『鍵のかかった部屋』について、訳者あとがき(白水社、1989年)がとてもコンパクトに正確に『鍵のかかった部屋』評がまとめられています。単なる翻訳家(すいません)ではなく、アメリカ文学研究者ですからファーンショーという主人公の友人で姿を消した人物がホーソーンの作品の題名である事や、探偵小説の探偵と犯人の分身的な関係と的確に説明しています。

 さて主人公の「僕」は幼馴染ファーンショーの妻ソフィーから失踪した夫の行方の捜査を依頼されます。取りあえずは探偵。しかも前にソフィーが頼んだ探偵クィンは捜査を放棄していなくなってしまっていた。僕はファーンショーを追いかけながら、ファーンショーの作品を読み、出版しソフィーと関係する事で、しだいにファーンショーになっていく。ファーンショーという聞きなれない名前はホーソーンの若き日の作品のタイㇳルでかつ主人公の名前でもあります。

 三部作ではずっと書く事にこだわっていた。『シティ・オブ・グラス』の作家クィンは自分の書いたノートを残していなくなったし、『幽霊たち』のブルーは何かを書いているブラックを監視している人で、ソローの『ウォ―ルデン』や依頼人のホワイトのメッセージを読む人である。『鍵のかかった部屋』の「僕」は新進気鋭の批評家で書く人であるけれど、ファーンショーの作品を「読む人」でもある。しかもこの僕=読む人は、前2作とはちがい現実世界に帰還するようなラストの書かれ方でした。