「対比の論理」への違和感

下の2つのコメントを読んでみて下さい。

・「古くならぬことが新しいのじゃないのですかね」。昭和の映画監督、小津安二郎の名言を思い出した。

 (「天声人語」)

・「大学は、顕微鏡や望遠鏡で世界を覗いて研究する方法は教えても、自分の目で見る方法は教えません。」ヘンリー・D・ソロ― (「折々の言葉」)

 

 いずれも今朝の朝日の朝刊です。よく入試の国語の問題にも取り上げられると言う「天声人語」。著名な哲学者のコラム。啓発される事も多いですが、時々?と思う事も。

 でタイトルは何かを言おうとするときに対比の論理で語る事が多いことへの違和感について。今年は小津安二郎の生誕120年でけっこう催しがあり札幌の北海道文学館でもありました。行こうと思いつつ、予約制でもあっていけませんでした。件の言葉は、松竹の重鎮監督であった小津が若い監督に「もう古い」と批判された時に行った発言のように思います。

 それにしても「新しい」事がいいと認める言葉である事を小津は認識していたのでしょうか。僕としては「古い」と言われた時にちょっとたじろいでも、「新しい」事がそれほどいいのだろうかと考えるような気がします。「古くても」いいものはいいと思えないだろうか。

 「新しくていいものはいい」と「古くてもいいものいい」。「新しくてもよくないものはよくない」と「古くてよくないものはよくない」。つまりポイントは「いいか悪いか」で、「新しいか古いか」ではない。もっと厳しく言えば「いいか悪いか」の定義や、その問い自体も考えなければいけないのですが。

 実は小津さんも昭和の初期、1930年代は若き監督としてアメリカ映画の影響を受けたモダニズム的な新しい?映画を作っていたのでした。それは映画の初期の実験で「新しくていい」試みだったと思います。

 写真はモダニストで多彩な才能の持ち主だった小津監督の書いた絵です。

 1番目が長くなったので、2番目のソローの言葉については次項で。