さまざまな「檻」

 ・「檻」についてのきっかけは北方謙三の『檻』(1983年)。あまり得意でない作家の文庫本が20~30冊が本棚にあってそのうち数冊を再読しました。そして『檻』は少し僕の琴線にふれました。偉そうですが。あまり男臭さを前面に出し過ぎない。そして人間の「檻」の意味を考えさせる意味でも。日本冒険小説協会の大賞を受賞したそうな。

・「檻」と言えば、このブログでも4月に「勤勉の美徳と「檻」」と題して書きました。この場合は勤勉に働いても他者に搾取される「檻」にとらわれているようなものだとの指摘。

・3年前の支部大会(Zoomでした)で取り上げられたヘンリー・ジェームズの『檻の中』。郵便局の女性電信技士(いたんですね)が裕福な客の電報のメッセージから想像/妄想するちょっとシュールな不条理も入った中編でした。「檻」は主人公の働いているブースでもあり、彼女の中産階級のその上を志向する精神というかモラル。最後はそこから脱出する。それをデゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で「愛を壊して愛を知ること」という風に絶妙なレトリックで表現しています。

 ・Zoomの支部大会の前の年2019年はコロナの前で、退職の翌年。いろんな事が起きた年でした。痛風、詐欺にあう、墓を立て直す、親友の死、などなど。その中でリニューアルした円山動物園に久しぶりに行って、やっぱり「檻」に入れられた動物を見るのはあまり好きでないなぁと再確認した次第です。大博覧会やオリンピックと同様に、もう時代遅れのコンセプト/入れ物/施設だと。

 で最後に。自分にとって「檻」とは自分の意識と肉体だと思います。自由になりそうでならない。そこから出られない。そんな事を考えながらイタリアのジャズ・ピアニスト、ステファーノ・ボラーニのFalando De Amorを聞いています。2003年のジョビン曲集。タイトルも「愛の語らい」というアントニオ・カルロス・ジョビンの曲です。

 写真は日曜日にテニス・コートに中学生が持ってきたスズメバチの巣。この少年は小学生の時から来ていますが、成長が早くて今はもう僕らがかなわないテニスのレベル。虫博士というよりハチに特化して関心があるようです。ハチの巣はコート・マスター(管理人)のK田さんの手で翌日、ハチの炒め物?に代わって。食べた人はアーモンドみたいえ香ばしいと言っていました、僕は・・・でも蜂の巣も一種の「檻」?