『マイ・ビューティフル・ガーデン』、混沌と美と秩序

とび

 2016年のイギリス映画。原題はThis Beautiful Fantasticです。「この美しくも、風変わりな」という意味でしょうか。

 主人公ベラ・ブラウンを演じるジェシカ・ブラウン・フィンドレイがいい。イザベル・アジャーニに似て、彼女ほど癖がない。つば広帽子にクラシックなワンピースも似合うし、どこかボーイッシュというか美青年のようにも見える。唇と鼻が大振りで形がいいせいだろうか。テレビ・ドラマ『ダウントン・アビー』で有名になったようです。

 さて図書館に勤めるベラ・ブラウンは秩序と言うシステムの中で生きている。食事の皿の上の食べ物の配置、クローゼットの服の整理の仕方、歯の磨き方、鍵のかけ方に至るまで、きちんと揃えられている。人間が関わる事象は「人工」的なので、整理された秩序は欠かせない。ただベラの場合はそれが行き過ぎた例で、それが自然の混沌の関りで正されるだろうと予想されます。

 一方、自分の意志通りにならない自然が苦手で、アパートの庭は荒れ放題で、管理人から1か月できれいにしなければ出ていくように宣告される。

 彼女が働く図書館でも、どこにどの本があるか即座に応えられる整理の鬼?そこに自由な発明家の青年ビリーが現れる。彼の残した機械仕掛けの鳥の設計図をアパートに持ち帰り、しかし窓から吹き込んだ風で庭に飛ばされてしまう。

 それがきっかけで話すようになった隣の老人アルフィートム・ウィルキンソン)がベラを庭と自然の美しさを教える導師となる。彼女に貸し与えた庭の本の著者はアルフィーの亡き妻が男性名で書いたものだと後から分かります。

 実はアルフィーは造園家だった。実は僕の父も造園家だった。と言うと格好いいけれど、庭師。小さな造園業を営んでいました。何となく父に合っていたような仕事だった思います。学生時代、手伝った事もあります。肉体労働が6割、職人的な部分が3割、無理して言えば芸術的な部分が1割というところでしょうか。

  アルフィーに戻ると、彼の信念が「混沌に美を見出す事」。自然は混沌としていてるけれど美もそこにはる。両義的で当たり前の理屈でもあります。しかも庭と言うのは人の手が入った言わば人工的なものなので、アルフィーの言葉は少し舌足らずか。手つかずの自然の中にも、人の手が入った庭にも、秩序にも美はあると思います。

 でもそれは秩序の虜であるベラにとっては生き方の基本的な理念を覆すような考え方だった。でもちょっとずつ荒れ果てた庭を片付ける事は、混とんと秩序の両方を身に着ける事ができる、弁証的な、脱構築的な学びでもあった。しかもそこには美もある。

 さてビリーとの関係は、短くまとめると、ベラの作家志望が機械仕掛けの鳥(ルナと名付けられる)の物語を紡ぐことで、どうも何も書いていなかった言葉だけの作家志望が本物になっていく。それがもう一つの物語か。

 最後はアルフィーが亡くなり、ベラのアパートは大家だったアルフィーによってベラに与えられる。そこに今度は混沌に秩序も兼ね備えた庭と美をベラが作っていくか。

 最後にルナの物語はThis Beautiful Fantasticというタイトルの本になって、ベラが首になった図書館の蔵書となるのでした。「この美しくも、風変わりな」というのは、機械仕掛けの鳥であると同時に、ベラでもあり、また庭でもある。つま混沌と秩序と美の併存する世界。

 いつも苦言を呈している邦題の『マイ・ビューティフル・ガーデン』だと、 Beautifulだけ言っていて、 Fantasticな部分が抜け落ちています。映画が言いたいのは、やはり「美しい」けれど、ちょっと「風変わりな」この庭≒この現実の世界だと思います。