美は乱調にあり、諧調にもあり

  前項の『マイ・ビューティフル・ガーデン』の園芸家の言葉「混乱に美を見出す事」について追加したいような気がして考えていたんですが、アルフィーがどの場面でそのような言葉をベラに言ったのか確認できない。配信映像(レンタル料400円)を再見しても見当たらない。

  そんな中で「混乱に美を見出す事」について考えているうちに思い出したタイトルの言葉は関東大震災の混乱時に憲兵隊に虐殺されたアナキスト大杉栄(1985‐1923)の「生の拡充」の中にでてきます。近代社会の階級と支配/被支配の闘争の中で、征服が生の拡充を邪魔し、それに対する反逆/破壊が生まれる。それこそが至上の美であり、「諧調はもはや美ではない。美はただ乱調にある。階調は偽りである。真はただ乱調にある。」

 この主張とレトリックは素晴らしい。ただこの言葉を大杉栄伊藤野枝伝『美は乱調にあり』を書いた瀬戸内晴美の言葉だと勘違いしている向きが多いのは残念だ。

 今年は関東大震災から100年。朝鮮人や中国人の虐殺と共に、社会に不安を与えると当時の政府や軍部が妄想した共産主義者社会主義者労働運動家そして大杉栄のようなアナーキストが犠牲者になった。殺害の責任者の甘粕大尉は短い服役の後、満州にわたり満州映画協会の理事長になり、敗戦時に自殺した。森繁久彌や山口叔子など映画関係者の甘粕への印象が記録に残っています。

 また大杉栄伊藤野枝を主人公にした映画『エロス+虐殺』を監督した吉田喜重が年末89才で亡くなりました。高校時代か浪人の時か映画を見た記憶があります。昨年、小津安二郎にはまった時に、小津と接点のある吉田の『反映画』という評論を読み、小津映画の特異な点と映画の原点でもあるような写真性について考えさせられました。

 で冒頭の大杉栄の文について。文化や美が、さらには意味までも支配者/征服者のものであって、それを諧調≒秩序とするならそれに反逆する人々の美は乱調≒混沌にあると。これは正しいと思います。しかもそこにこそ「真」もある。

 でも実は諧調≒秩序に美はあるんですね。そして乱調≒混沌にもまた美はあると。美の多様性または多存生(いま自分で作った言葉です。どこにでもあると言うような意味。普遍性に近いかな)は今では当たり前かもしれません。60年代のコルトレーン、セシル・テーラーオーネット・コールマンアルバート・アイラ―のいわゆるニュージャズまたはフリー・ジャズを聴いてきましたが、そこにある混沌や乱調は美しいです。黒人ミュージシャンが多いのは、白人が支配する世界の抑圧への反逆、破壊です。もちろんフリーキーなサウンドは、長時間聴き続けるのは少し苦しいかも知れませんが。

 演奏しているミュージシャンもずっとフリーキーな音を出し続ける訳ではなく、途中でサウンドを変えたりします。でもセシル・テーラーのソロ・ピアノを30分でも1時間でも楽しく聞く事はできます。それは乱調≒混沌でも美しい音だから。50年近く前にジャズ喫茶で聞いたときは、勉強≒苦行?だったかもしれませんが、今は違う。面白いですが、そのようなフリー・ジャズに慣れたのか、利き所を分かるようになったのか。少し不思議です。2年前のブログではこの過剰な意味の世界における一服の清涼剤のように、抽象的な美の世界に浸っていられると書きました。

 最初に戻ると、諧調≒秩序×乱調≒混沌は、意味×抽象にも延長、変換できそう。でも両方に美と意味があるとも言える、と言って終わろうかな。