『コーダ』、聴覚障害の家族を持つ少女

 2021年のアメリカ映画。今年日本で上映され評判になったようです。

 アマゾンで見ましたが、その前にタイトルだけ見ていた『エール』という2014年のフランス映画のリメーク。

 「コーダ」というのは普通は楽曲の最終章という意味ですが、ここでは視聴覚障碍者の家族を持つ耳が聞こえる人を指す。つまりchildren of deaf adultsの頭文字CODA。いいストーリーだからリメークしたのでしょうが、アメリカはリメークがうまい。しかもこれはハリウッドではなく、サンダンス映画祭で賞をとった作品です。

 日本だとお涙頂戴式の、センチメンタルなドラマにしがちだが、アメリカはもうちょっとドライでリアル。マサチューセッツ州の漁業の街グロースターに住む主人公の女子高生の学校におけるいじめ、家族(両親、兄)のちょっと下品な言動など、そこそこリアル。でも何よりも主人公の歌う能力と、そこそこのルックス、これがドラマの肝だと思います。服装によってはダサい高校生。発表会のドレスでは、けっこうかわいい。それはもちろん演技力がないとだめですが、あります。歌唱力は有名だと言う歌手の父親の血筋か。

 家族では父親フランクがいい。もとヒッピーのような、労働者の風貌と服装。家業の漁師の仕事に娘の手話通訳が欠かせない。そしてかわいいから手元におきたい。その葛藤がうまく描かれます。

 母親のジャッキー、けっこう下品、人は好さそうだけれど、これがあのマーリー・マトリン。『愛は静けさの中に』(1986)で史上最年少のアカデミー主演女優賞を受賞して有名になりました。共演のウィリアム・ハートとは2年ほど同棲していたようです。

 このリアルさが物語の現実味を確保している。つまり障害を持つ人を描く場合は、無力で孤独で人の助けを必要とするか、または人格高潔であらねばらならないという、逆に差別をしている。例えば、1960年代の黒人俳優シドニー・ポアチエは『夜の大捜査線』では優秀な刑事。『招かざる客』では医者という具合に優秀でなければ白人の敬意を得られないよう錯覚をそのまま物語に内包してしまう。同じような事が障害を持つ人の描写でもあるんですね。

 さて主人公のルビー・ロッシは、普通の高校生だけれど、普通の高校生の生活とは少し違う。家族の通訳をしたり、フランクと兄の漁業の手伝いをしたり。新学期のある日、ちょっといかす男子に惹かれて合唱クラブに入ります。歌う事の楽しさに気付き、クラブの顧問の先生も彼女才能に気付いて都会の名門の音楽学校への進学を進めます。その歌唱試験に行く家族は彼女の歌声が聞こえない。

 ここでも耳の聞こえない人は音楽は理解できない。その現実から目を背けて、何か娘の歌唱について理解できるようなフィクションを作り上げる事はしない。耳の聞こえない人が音楽を理解しなくても、それ以外の様々な芸術や世界があるのだからそれでいいのではないだろうか。

 映画ではルビーが手話をしながら歌うので、歌詞の内容と娘/妹の歌を感じるように描いている。でも無理に歌声を聞こえないけれど感じ取ったと言う風に描いている訳でもない。それでいいと思います。

 ラストで進学するルビーを送り出す家族の描き方がシンプルで、でもい意味でパセティックで、見直してもすこしウルっとしました。涙もろい老人です。

 思い出せば、小さい時にも飼っていたカメが死んだときに泣いて、母と兄がずいぶんと優しい子だと思ったらしい。でもちゃんと餌をやっていれば死なせなかったのに、と涙もろいけれどクールな息子/弟は反省していました。

 写真はラスト。友だちの車で家を出るルビー。家族にI really love you.”という気持ちをsign languageで送ります。