1970年の『中桐雅夫詩集』(現代思潮社)の「中桐雅夫について」(鮎川信夫)を読みました。どうも奴隷文学について小説を読んだり映画を見て、少々疲れる。それで最近読んだ本を再読していました。『荒地の恋』も。この恋も少々つらいけれど、19世紀の奴隷制度の話に比べれば・・・
本人は「地獄」とか言うけれど。確かに奥さんや相手もノイローゼになるけれど、それでも長期にわたる制度的な監禁と虐待の許容される社会とは比べ物にならない。それで、少しほっとするのでしょうか。前述したように面倒見のいい鮎川信夫。ある程度は知っていたけれど戦後『荒地』だけでなく、その前からも若き詩人仲間のリーダー的存在だったようだ。
神戸の中桐雅夫(1919‐83)が1937年に詩誌『LUNA』を創刊。後に『LE BAL』になる。鮎川信夫と連絡をとった中桐雅夫は銀座の喫茶店コロンバンに絣の着物と袴で現れる。まだそんな時代だったんですね。なんか鮮烈な登場のし方で、ヴィジュアルには田村隆一の海軍将校の軍服姿に匹敵します。
後述の北村太郎の自伝『センチメンタル・ジャーニー』で、「この家出青年は白絣の私服に袴をつけ、実に颯爽としていた」と記しています。白い絣の着物と紺か黒の袴も颯爽としていいですね。いちど着てみたかった。
後に5回結婚した田村ですが、海軍将校の軍服って白いスリムな制服が容姿を数段アップする。『トップ・ガン』のトム・クルーズ、『追いつめられて』のケヴィン・コスナーなど。
中桐雅夫には、僕は英文科の頃でしょうか、オーデンの『染物屋の手』(1973年、晶文社)の訳者として出会いました。鮎川信夫(1920‐86)は中桐に会った後1942年早稲田英文科に卒論『T・S・エリオット』を提出。出征、病気のため帰還。戦後1947年『荒地』を発刊。戦後詩のスタートとなる。確かに20代の若い詩人たちにとっては、敗戦後の日本は、エリオットの第1次大戦後のヨーロッパと同様に、というか文字通りのまさに「荒地」だったのでしょう。
思潮社の『中桐雅夫詩集』発刊の頃は詩人は50代だけれど、1980年『会社の人事』で歴程賞受賞、ほぼ60才か。読売新聞社の記者として25年、その会社の組織と人間の軋轢、葛藤が端的に表れる人事。そんな詩を書いて詩集を出して、評価され退職。その後法政大学、フェリス女学院大学の講師をしています。鮎川や北村太郎のように翻訳もしていますが、あまり売れそうにない?ミステリーが多い。63才で心不全で亡くなりますが、どうもアルコールで肝臓がやられていたようです。僕も気を付けなくては。
鮎川信夫の方は、戦後詩人のリーダー格として詩や詩論、そして1960年代になっても吉本隆明との対談など積極的に文壇的、社会的に活動しています。クイーンやクリスティ、そしてドイルの翻訳も精力的に。最後は甥の家でゲームをしていて(観戦をしていて)倒れてなくなります。66才。その時に最所フミが妻である事が親しい仲間にも初めて知られる。彼女は英語の使い手として鮎川の仲間にも知られていたのですが、なぜか秘密にしていたようです。何故かが知りたいですが。
『センチメンタル・ジャーニー』の方は北村太郎の原稿と口述を正津勉がまとめたもの。僕は草思社文庫で読みました。50代の『荒地の恋』に至る前の部分がよく分かります。幼い時の田舎での遊びや、父親が浅草で蕎麦屋を始めて、下町で少年時代を過ごす。中学から詩や短歌をはじめ、商高時代に田村隆一たち出会う。戦前の『荒地』前の時代。東京外語大学に入り20才頃に結婚。戦争が激しくなり徴兵にかかりますが、日本で敗戦を迎えます。
戦後東大に入りなおす。妻と息子が事故で亡くなります。卒業後は証券会社等を経て朝日新聞の校閲部で20数年を過ごします。その間詩集はあまり出さず、英米のミステリーの翻訳。退職に近い50代になって「荒地の恋」に突入するんですね。それまで地道にこつこつ生きてきた詩人は、この恋=不倫もあって詩作もはじける。でもその恋も終わり、別な若い女性(詩人のファン)との恋もはじまります。最後は血液の病気で亡くなります。66才。
葬式に来た人は亡くなったはずの詩人がそこにいるのに驚きますが、そっくりだった詩人の双子の弟でした。
田村隆一の最初の妻は鮎川信夫の妹。2人目は岸田衿子。岸田國士の長女で、岸田今日子の姉。岸田森の従弟。谷川俊太郎の最初の妻でした。21才の谷川俊太郎が僕の生まれた1952年に出した『二十億光年の孤独』にしびれたのは18才の時。記憶では国語の受験参考書に出ていた。浪人の時かな。長田弘(1939‐2015)が26才の時の『われら新鮮な旅人』(1965)を20才で読んだ。そんな日々を懐かしく思い出す年末の日々。テニスと病院と学会と。
写真は院生時代の非常勤先の英語の先生たちとの懇親会。ガロみたいに長髪にパーマでスーツ。開成高校だったので、立憲民主党の新党首の母校です。