『インヴィジブル』の難しさ

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 オースターの作品はある意味でいつも語る事が難しいとも言える。前項であの懐かしい青春小説も言える『ムーン・パレス』(1989)と同様に1960年代を描きつつ、『インヴィジブル』は1960年代の苦い思い出を40年近くたってから苦い懐古の物語だ。

 語り手の視点の多さ、登場人物によって書かれた小説の真偽など、人の心や、事件の真実など多くのことが「インヴィジブル」(不可視)である事が示唆されている。「見えない」≒「真実は分からない」という事をタイトルで明示しているので、そこでの複数の語り手の物語を読み手はどのように受け取ればいいのか。

 主人公のアダム・ウォーカーは1967年コロンビア大の2年生で、客員教授のルドルフ・ボルンとパーティで知り合う。アダムはボルンから父の遺産で雑誌を作りたいので、やってくれないかと誘われる。ボランと一緒に住んでいるマルゴに魅かれた事もあり、その雑誌の編集を引き受ける。

 しかしボルンと公園を散歩している時に起きたボルンによる黒人の少年の刺殺事件。容疑者にもならなかったボルンはパリに戻る。これはアダムのボルンへの不信と忘れられない記憶となる。しかしそれもアダムの視点からの物語に過ぎないのかも知れない。この後も視点が代わり、何が真実なのかinvisible(見えない)というのが作者の意図である事は前述のとおり。

 アダムは留学プログラムでわざわざボルンのいるパリを選ぶ。留学までの数カ月、ヴァッサーを卒業してコロンビアの大学院で学ぶ予定の姉のグェンとアパートで同居して、関係を結ぶことになる。この秘密も後にグェンの側から当然のように否定される。

そして向かったパリ。そこではボルンが結婚しようとしているエレンという女性にボルンの正体を明かすが、信じてもらえない。またエレンの娘セシルはアダムに恋をしてしまうが、おそらくボルンの陰謀でドラッグの不法所持でアダムは国外退去となり帰国する。

 文学からはなれ弁護士として人生をまっとうしたアダムは不治の病に侵されて、38年ぶりに友人のジムに手紙を書いて若き日の自分の物語を彼に託す。今度はアダムの書いた(作った)物語を読むジムの視点から語られます。

 ジムはパリを訪れてセシルに会い、それをきっかけとしてセシルはボルンの住む離れ島に誘われ赴くが、錯乱したボルンに愛想をつかして島を出るところで唐突に物語は終わる。ラストのセシルの行動と言葉も意味が「インヴィジブル」?で、オープン・エンディングとも。突き放された読者の快感もないように思えて・・・・

 1960年代という時代は結局あまり重要でないか。ボルンと言う人物の大学教授、スパイのような要素、不穏で曖昧だけどそれほど魅力的に描かれているようでもない。どうも僕はオースターの、またはこの作品のいい読み手ではないのかも知れない。