『ミスター・ヴァ―ティゴ』について

 

f:id:seiji-honjo:20210612101302j:plain


作品論ではなく覚書です。

 その前に幼馴染のブログを読んで。ニューヨークへ20回以上も行ったN田くんが上岡(伸雄)さんの『ニューヨークを読む』(中公新書)について書いていました。その後書きに僕の名前も出ているから読んでみて。上岡さんは僕がヒップホップ論を書いた『ポストモダン都市ニューヨーク』の共著者の一人です。 

 さて1994年発表のポール・オースターMr. Vertigoアメリカの1920年代の浮浪児ウォルトの物語です。1924年のある日ニューヨークの街角でマスター・ヤフディという如何わしいユダヤ人から空を飛べるようにしてやろうといわれカンザス州に連れていかれる。そこでのインディアンの女性マザー・スーと黒人の少年イソップとの生活を嫌がったウォルトはなんども脱出を試みては連れ戻される。

 マスターによる過酷な修行に耐えたウォルトはついに空に浮かぶようになります。しかしKKKの襲撃を受けて、スーとイソップは殺されてしまう。ここまでが第1部。

 その後「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」としてショービジネスの世界で売れてくるが、伯父のスリムに誘拐され何とか逃げ出す。またその事件の報道によってさらに知られるようになります。

 そしてより大きな町で大規模な興行を仕掛けて成功します。ところがウォルトは演技終了後の頭痛がひどくなり、「ウォルト・ザ・ワンダーボーイ」は廃業して映画スターを目指してハリウッドに向かいます。ここでもスリム伯父が待ち受けていてお金を奪われ、けがをしたマスターはがんを病んでいた事もあり、銃で自殺をします。ここまでが

第2部です。

 ウォルトは元の様に浮浪児に戻り、18才になってスリム伯父に復讐を果たした後、マフィアに入り成功して自分の店を持つようになります。その店にかつての栄光にすがりつく野球選手ディジーがやってきます。自分の姿を重ね合わせたウォルトはディジーを殺そうとして、逮捕され軍隊に送られてしまいます。ここまでが第3部。

 軍隊を除隊した後、ニューアークモリーと言う女性と知り合い結婚します。23年後に彼女が死んだあと、失意のウォルトに救いの手を差し伸べたのが甥のダニエル・クィン(『シティ・オブ・グラス』の主人公)でした。

 クィンの勧めでデンバーに向かう途中のウィチタで旧知のウィザースプーンと出合い13年共に暮らす。彼女の死後、一人残されたウォルトが13冊のノートに自分の生涯をまとめ、イソップを思わせる黒人の少年にノートを託す。

 う~ん、青春小説、成長物語、空を飛ぶというファンタジー、様々な人種の共生と対立と言うアメリカの物語。語り方は濃いエピソードが当時のラテン・アメリカのマジック・リアリズム的でもあり、ユダヤ的な語りのようにも見えます。来週の発表者は『ムーン・パレス』(1989)と一緒に「父と子」の物語として考察しようとしてます。

 僕的には少し過剰なエピソードのつなげ方のように思えます。それぞれのエピソードは面白い。語り部としてのオースターの能力はすごい。だから構成をはみ出して語り続けたいのだろうか。読者としてはいいんだけど、少し研究的な視点から考えるとバランスを失しているかなと。『ムーン・パレス』の方は祖父~父~息子(主人公)の出会いが偶然過ぎますが、物語の構造としては破たんがない。

 1920年代のジャズ・エイジにおける栄光と転落、上昇と失墜。伝説的なチャ―ルス・リンドバーグディジー・ディーンのような時代のヒーロー、神話的な存在、マフィアや1920年代と言う時代とも重ね合わせられるウォルトの物語。かなりアメリカの物語、歴史と時代を意識して織り込んで描いていると思います。それが『ムーン・パレス』では1960年代のアポロの月面到着の物語とも呼応するように思えます。そこではアメリカの神話と夢と成功、そして敗北の悪夢とが描かれる。