「手紙が宛先に届くかどうか」の問題

  『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を読んでいて、研究的な志向が甦って?しまったようでしつこく書いています。前項の最後、オスカーが退行的にも過去への逃避にも見えるのは、ジジェクというかラカンの言うところの「夢の世界の方が現実界」で、「日常の方が社会による抑圧に対しての妥協的な世界」だという理論を援用すれば少し納得する(ような気がする)。つまりオスカーにとっては父と探索ゲームを楽しんでいる方が現実(界)なのだと。

 で今回は「誤配」の元になっている「手紙が宛先に届くかどうか」の問題について。 

    ポーの「盗まれた手紙」(1884)についてジャック・ラカンが「「盗まれた手紙」についてのセミナー」で「手紙は常に宛先に届く」というテーゼを提出した。それに対してジャック・デリダが「真実の配達人」(1980)で「手紙は宛先に届かないこともある」と反論。今度はラカン派のスラヴォイ・ジジェクが「「手紙はかならず宛先に届く」のはなぜか」(1992)で擁護。次に日本の東浩紀が『存在論的、郵便的』(1998年)でラカン批判を展開する。

 この議論は難しくてついていけないが、ジジェクの映画論(『汝の症候を楽しめ』)は楽しめる部分と賢しらな議論でしらける部分とがあり、13年前のブログでも批判的?に紹介していました。つまりフリッツ・ラング監督のフィルム・ノワールの古典『飾り窓の女』での殺人を犯してしまった大学教授(エドワード・G・ロビンソン)の結末が、それは夢だったというハリウッド的ハッピー・エンド?が実は心の中では殺人者だった、そっちの方が「現実界」なのだというのがラカンジジェクの理論。最初はおう、これは面白いと感じたが、少したって再考すると、それって何だかなとも思い始めました。

 さてそのジジェクは「手紙」の「真の受取人」は経験的な他者ではなく大文字の他者、つまり象徴的秩序であるとしています。難解な用語も、関連する文献や解釈を読んでいるとじょじょに分かってきます。

 たぶんこうだろうと言う自己流解釈。手紙=文字=記号(シニフィアン)と手紙の中身(シニフィエ)。そして書き手=送り手と宛先=受取人。記号を介在しての意味の、メッセージの受け取りまたは受け取り拒否。この受け取り手=宛先が意味を理解しないまたは理解しても否定する場合を、比喩的に「手紙は宛先に届かないこともある」となるのだろうか。

 しかしラカン的≒ジジェク的には、書き手が書いたときにもうすでに社会(書き手と受け取りてを含む)に発信されているから、同時に社会に受け取られている。つまり「手紙は常に宛先に届く」。つまり書き手がどんな事情や葛藤が内的にあるにせよ、文字と言う社会的な道具で手紙と言う装置に乗せた時点で、それは外的な社会に発信され受け取られた記号であると。

 でも少し視点を変えれば、と言うか普通の感覚では、「手紙は宛先に届かないこともある」方が理解しやすい。この「未配達」の変形が「誤配」となるだろうか。これは自信がない。また届いた後に受信人がメッセージの内容を拒否するとか、送り返すとかもありえるし。

 実はポーの「盗まれた手紙」、設定と言うか最初の手紙が盗まれる大事な場面が今一つ。けっこう突っ込めるところが多いような気がします。それと「盗まれた手紙」に関してラカンの専門家が説明する部分が間違がっています(と思います)。まず原文は“personage of  most exalted  station”(最も地位の高い人物≒王妃)が“royal boudoir”(宮廷の私室)で(たぶん恋人からきた)手紙を読んでいると“ the other exalted personage”  (もう一人の最も地位の高い人物≒王)が入って来て その高貴なる女性は手紙を引き出しに隠せなくて机の上に置いた。そこに“the Minister D”が入って来て、女性の様子を見て、しかも手紙の宛書の字にも覚えがあり、それを盗みます。たまたま似たような外見の手紙を持っていたので、それを出して読むふりをし、それを最初の手紙の横に置き、少し会話をした後女性の手紙の方を手にして部屋を出る。

 かなり突っ込みどころの多い、手紙の盗まれ方です。で、まず“ boudoir”は「上流婦人の私室または寝室」です。これをラカンの専門家は「王妃の横たわる寝室」としています。そんな部屋に大臣が入っていく?確かに“royal “とありますから「王妃の私室」なのでしょう。居間や食堂と寝室の間にある部屋。そこで手紙を書いたり、寝る前にくつろぐ事ができる。そしてそこだと大臣が入っても大丈夫だと思います。

 でもここまで書いてきて、「寝室」でも大きければ、部屋の中でベッドのあるスペースと離れて、机やソファがあってもいいかな。そんな景色を絵画や映画で見た事もあるような。でも「王妃の横たわる寝室」とまで書かなくてもいい。それと“the Minister D”をわざわざ「宰相」としているのも間違いのように思えます。Googleで“royal boudoir”を検索すると、豪華な天蓋付きのベッドの画像もあるけれど、机やソファ、応接セットのある私室が多い。

 さて「私室」だとして、大臣が取次もなしに急に入ってい来る事があるだろうか。そのあたり、アメリカ人ポーのヨーロッパの王室の習慣に関する無知による、設定の不自然さだと愚考しますが、ポーの専門家はどのように考えているだろうか、知りたいものです。でもヨーロッパの王室ではこのような、高位の政治家による振る舞いが許されているのかも知れません。政治家自身が王室につながる貴族である場合もあるでしょう。

 で大臣が王妃の私室にずかずかと入ってくることがあり得るとしても、その後の手紙の盗み方も杜撰。そして警視総監に頼まれたデュパンが大臣の部屋で、さりげなく置かれた「盗まれた手紙」を取り戻す手腕についても、それ程とは思えない。このような稚拙な盗み方、盗み戻し?方はある種の寓意と言うともとれるけれど、それこそラカンデリダが論じたくなるような作品かなと思います。でも細部の描写のよりも、物語の構造や「盗まれた手紙」の象徴性が精神分析家の語りたい気持ちをくすぐるのか。その意味でポーの手紙はラカンデリダに届いたのかも知れない。

 写真は手元にあったPurloinde Poe。作品のテキスト付きの論集です。写真のポーの髪をつかんでいる手がうつっています。「盗まれたポー」なので、あちこちに引っ張りまわされて/論じられているという意味でしょうか。