モダニストか伝統回帰か

 

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中野翠さんの『小津ごのみ』は何回も読み直して、楽しく「うんそうだね」と教えられところが多いのですが、1点のみ納得できないのが、小津は戦後もモダニストで伝統への回帰はないという意見です。

 先ずモダニストまたはモダニズムについて。ちょうど100年前に欧米ではモダニズムという芸術運動があって、僕はイギリスの女流作家ヴァ―ジア・ウルフを研究していたのですが、彼女はジョイスアイルランド)やエリオット(アメリカ人で、イギリスに帰化)など英米モダニスト作家の代表と言われています。女性、アイルランド人、アメリカ~イギリスと言う風に従来の中心とは異なる周辺的な位置にいる芸術家の出現とも言えます。

 美術ではピカソやブラックのキュビズム(立体派)、ダリやブルトン(文学)のシュルレリスムなど。日本では瀧口修造。このあたりはアヴァンギャルド(前衛)と言ってもいいと思います。瀧口は1930年(昭和5年)にはブルトンの翻訳もしてますが、昭和モダンと同時代です。小津作品にも出てくるモガ・モボの出現、世界的に第1次大戦後の大衆社会が出現します。つまり音楽や映画な文学などの教養の大衆化、食べ物やデパートやファッションを享受する現代都市社会の誕生時期でもあります。

 1903年生まれの小津は20代後半から30代なので、感覚的にも経済的にも同時代の流行を摂取し、作品にも投影した訳です。しかし昭和モダンは5.15事件や2.26事件など戦争の時代が始まると終わりを告げます。そして小津自身も2度の戦争体験をします。それが戦後の作品にどう影響をしたか/しなかったか。

 また一人の人間として、成長期の同時代の文化摂取/享受、そして成熟期・老年期における人間や人生の終末への関心が芽生えるのはごく当然で、その間に過酷な戦争体験がはさまれば、「無常」とか「無」とかへの傾倒もこれまた必然では。それは伝統回帰というよりも、ある意味でファッションとしてのモダニズムを経て、50代の人として人間が抗えない時間と終わりへの冷静な観照と考えた方がいいようにも思えます。

 ただ『OZU大全』で紹介されている絵をみると、画家としてのある程度の才能が感じられます。小学校の時にデッサンも小学生とは思えない。戦時中にシンガポールに滞在していた時の風景画も細密ですごい。写真はその「新嘉坡(シンガポール)好日」。そして晩年の中井貴恵宛の葉書の絵は、構成と絵とセリフのユーモアがポップアートにつながるような画才。やはり小津はモダニストか。それともポスト・モダニストか。でも一人の人間の内部が絵ではモダニスト、映画の方は人生の無常を表現するのは、これは決して矛盾ではなく、ごく当然とも言える一人間多文化。一人間複数のアイデンティティ