宴会@厚田村

 4時前にホテルに着いたのですが、雨で「茅ケ崎館」の見学は中止。

 ホテルでブログを書いたり、駅のデパートをぶらついたり。

 5時半宴会開始。7名。写真のようなきれいで美味しい突き出しから。

 右下は茅ケ崎で有名なしらす。左の中トロも美味しかった。

 店主のY内君は随分と珍味を用意してくれました。8千円で生ビール、日本酒(〆張鶴浦霞禅)、ハイボール(山崎、ダブル)、白ワインと飲み放題なので?飲みました。

 料理と話と酒に満足して9時半ころ解散。傘を差しながらみんなで歩いてホテルへ。

 今朝も朝食時に予定を確認。女子3名はY内君の案内で鎌倉散策の様です。

 僕は別行動で予定の北鎌倉の円覚寺に小津監督のお墓にお参りしようと。

 大船で乗り換える時にコロコロケースを預けて動きやすいようにしようと。大船まではこれから広島に行くT谷くんと一緒。彼は羽田から広島に行く予定。S庭君は伊勢佐木町でラーメンを探すようです。

5年ぶりの飛行機

 少し不安?でしたけれど乗れました。

 5年ぶり。2019年に佐賀に行って以来です。その後コロナあり、体調も少し良くなくて。

 もともと少し閉所恐怖症気味で、狭いところは嫌。小さい時は縁の下にも入ったんですが。

 特に4人乗り、2ドアの後部席。何かあった時にすぐ出られない場所が苦手です。

 学会で会場から懇親会にマイクロバスが使われる時がありました。先に乗る場合、後ろの方から座らざるを得ない。その後満席になって補助席が使わるようになると・・・

 何とか隣の人と話を続けて目的地に着くまで、その状況を意識しないように。

 ま、ちょっとオーバーに書いているかもしれませんが。 

 で今日は大丈夫でした。でも今度はプレミアム・シートで行きたいなと。

 それと航空券もチケット・レスになりつつあるんですね。僕は並んで紙の券を発行してもらいましたが。今回さくらトラベルを使ったのですが、そこからANAのチケット(QRコード)で、改札(と言うのかな?)で読み取ってもらう。

 さて羽田から京急線で横浜まで行って、JR東海道線に乗り換え、茅ケ崎で降りました。雨の中、4時少し前にチェックイン。実は5時半の宴会の前に小津監督の愛用した茅ケ崎館に行こうと思いましたが、中止。

 それでこのブログを書いています。機関誌の書評の原稿も書く予定。

 でもまだ1時間もあるのですが、駅前を少し散歩しようと。

 追加。たぶん現役の時に買ったのだと思いますが、Suicaカード。とっても便利です。2018年の新潟、2019年の佐賀でも活躍?した。今回も念のため持ってきたら使えます。4000円近くチャージしてあって。特に旅行中は荷物が多くて、財布から小銭を出すのが面倒。それと料金も券を買う前に確かめなくてもいい。持っててよかった。

4月1日異変?

 昨日は年度替わりと言うか、年度初めと言うか。

 でもまだ雪が残っている。昨年が雪解けがはやかったせいか、今年は多いなと感じます。玄関先は消えて、マンサクの冬囲い(雪囲い)の縄は外したけれど。

 夕方、コーヒーを沸かして夕刊を待っていたけれど、来ない。朝日新聞は北海道の夕刊を廃止したのでした。う~ん、たいした記事は載っていないにしても、午後3時半~4時のコーヒー・タイムのお供だった。そう言えば、退職してからだから、この5年くらいの事でした。

 午後8時くらいにサイレンが鳴り続けて、近所でとまったように聞こえる。戸口に出ていると向かいに消防車がとまっている。ホースを持っている隊員はその数軒先のお宅に向かっていました。

 ゴミ出しの時によく話をする方です。2年前に班長をした時には、班の事で相談に見えた事も。

 どうも裏の方から煙が出ているを裏の家の人が通報したようです。

 でも玄関先で消防の人と話しているように見えて、ひと安心して戻りました。

 この時点でけっこう近所の人が集まったり、道新の人も取材に来たり。僕も話しかけられましたが、個人情報でもあり名前や住まい方などについて話したくなかったので、家に戻りました。

 少したってから気になって出てみると、お向かいさんと話している。僕も加わって無事を喜びました。どうも古くなった給湯器の不完全燃焼のようでした。

 春先の、年度初めの珍事が一大事にならなくてよかった。

『スリー・ビルボード』も面白い・・・

 『スリー・ビルボード』は2017年作。監督はマーティン・マクドナーアイルランド系イギリス人。アイルランドを舞台とする、ブラック・ユーモアを特徴とする作風。

 主演はまたもフランシス・マクド―マンド。と言うか彼女の主演で面白い映画を見直しているからそうなる。

 評価としてアカデミー賞の主演女優賞、助演男優賞(後述)、『キネマ旬報』第1位。

 ストーリーを1行で書くと「娘をレイプで殺された母親が捜査が進ままないのを不満に思って、3台の広告版に抗議のメッセージを張り出す。」。う~ん、1行では収まらない。

 さてこの『スリー・ビルボード』もアマゾンのプライム会員の特典で無料視聴。再見です。

 2回見ると、大まかなストーリーとエンディングは分かっているのですが、細部について気が付く事が多々あります。

 実はエンディングもそうだったっけと、あまりきちんと見ていなかった事にも気づきます。

 マクドーマンドは『ノマドランド』と同様、タフな女性を演じます。その他に署長を演じたウディ・ハレルソンと署員のサム・ロックウェルに注目。

 ハレルソンは『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994)のせいかエキセントリックな切れやすい役を演じるイメージです。実は本人も警官やパパラッチを殴ったり、マリファナを栽培したり、問題行動というか事件を起こしやすい人物にのよう。でも一方では環境保護反戦などの活動もしている。最近紹介した『ノー・カントリー』では究極の悪とも言える殺し屋にあっさり片付けられる。でもこの作品では、有能とは言えないかも知れないけれど、町の人や署員、家族に愛される好人物を演じています。でも末期がんで、自殺をしてしまう。でもその遺書で主人公やレイシストの警察官ディクソンに影響を与えます。

 さてそのレイシストで、でも署長を敬愛する無能な署員を演じるロックウェル。僕はこの作品で注目しました。映画の後半では、署長の遺書にうたれて改心して、マクド―マンドに協力するようになります。そのあたり、見ていて心地いいのですが、ちょっとそんなに簡単に改心するのという意地悪な気持ちも。

 実はロックウェルはいい役を演じていました。このブログでも紹介した『みんな元気で』ではデニーロの息子役。例さらに『ベスト・オブ・エニミーズ~価値ある闘い~』(2019)でもKKKの幹部ですが、映画の中で変わっていく役のよう。

 でこの『スリー・ビルボード』の主人公ミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクド―マンド)は本当にタフ。警察の署員はもちろん、町の人々にも嫌われてしまう。さらには家族にもあきれらる。息子や元夫。でもめげないタフさは、あきれつつ感心もします。

 監督はブック・ユーモア的な作風だと言いますが、アメリカでの映画もそのように作られている。そしてユーモア(笑い)がブラックなのはリアルで悲劇も含んでいるから。

 写真は3つの看板のうち、2番と3番目です。1番目は「レイプされた」事について。それを受けて「まだ逮捕されていない」、「ウィロビー署長は何しているの?」と辛らつです。

 タイトル(英語)も意味を持つような。Three Billboards outside Ebbing Missouriミズーリ州エビング。ミズーリ州はいわゆる中西部と呼ばれる地域です。州都はジェファーソン・シティ、最大の年はカンザス・シティ、最大の都市圏はセント・ルイス。このセント・ルイスには行った事があります。

 で架空の町エビング(「引き潮」、「潮が引く」という意味)は普通の中西部の町。東部や西部の大都会とは違い、また南部の比較的人種差別の残っている地方とも違う。ある意味で、中西部とはアメリカ以外の人があまり知らない、普通のアメリカなのだと思います。

 でラストは覚えていませんでした。実は改心したディクソンが容疑者と思える人物の捜査をしましたが、犯人ではない事が判明します。でも明らかにレイピストであり、その人物を消しに?ディクソンはミルドレットと出発します。ブラックな喜劇と言えるでしょう。『ノマドランド』のような静かな感動はないけれど。ま、別なジャンルのすぐれた映画かな。

『ノマドランド』再見、おすすめ

 2021年の映画。フランシス・マクドーマンド主演のジミ~な映画です。でもじっくり見ると面白い。彼女については何回か書いています。

 原作は『ノマド:漂流する高齢労働者たち』(Nomadland: Surviving America in twenty-First Century)で、これを読んだマクドーマンドが映画化権を買って、中国人の女性監督に監督を依頼。

 前に一度みて、ブログを試みたけれど。

 でも再見するも最初は淡々とし過ぎて、地味で・・・でも見ているうちに画面から目が離せなくなります。

 時代は2010年代。リーマンショックサブプライム・ローンの破綻の後のアメリカ。

 家を失った高齢者は、車上生活をしつつ、臨時の仕事をしながら移動します。

 主人公のファーンもそうですが、実はこういう場合の主人公の特権?があります。やむを得ず車上生活をしていますが、妹は一緒に暮らそうと言ってくれます。また同様の申し出をする男性も出てくる。つまり、ノマド的生活から抜け出る申し出が複数ある、他のノマドに比べると恵まれていると言えます。でも不自由な生活をしながらも、自由を選ぶファーン。

 アメリカの広い、けれど荒涼とした、とまでは言わないけれど、決して緑に囲まれた美しい自然ではない。そこをバンで一人いく老女(60代半ばです)。でもファーンはたんたんと時間を過ごしていきます。楽しくはないけれど、そんなに悲惨でもない。

 似たような境遇の仲間もいます。野外で用を足したり、ごみの処理、洗濯、食事、後片付け、次の仕事や車中泊が認められる駐車場の手配など些末だけれど現実的な問題はいくらでもあります。

 最後に離れなければならなかった自分の家を訪れて、また旅に出ます。

 画面にはDedicated to the ones who had to departとSee you down the roadと出ます。字幕は「旅立った仲間たちに捧ぐ」、「またどこかの旅先で」と。

 でも本当はちょっと長くなるけれど「旅立たなければならなかった仲間たちに捧ぐ」ではないだろうか。この物語は、自分の意思で家を離れたのではなく、経済的な理由で家を捨てざるをえなかった人たちについてですから。2つ目は「またいつか会いましょう」かな。

  フランシス・マクドーマンドについてはブログで3~4回ふれている関心のある女優です。彼女が27才の時の『ブラッド・シンプル』から、『ミシシッピ・バーニング』(1988)、『ファーゴ』(1996)、『あの頃、ペニーレインと』(2000)、『スリー・ビルボード』(2017)と本当にいい映画に出て、いい演技をする尊敬する女優です。

 でもこの映画では本当にすっぴんと言うか、トイレの場面や水浴びをする場面とか、中年から老年になりそうな女性の素顔をさらけ出す。

 冒頭で書いたように、監督の描き方も淡々として、2回目だけどこれはもうやめようかなと思うくらい地味な滑り出しです。でも見ていくうちに物語と主人公の演技と映像に惹かれていきました。だから途中でやめないで見て下さい。

 アメリカの荒涼とした、でも美しいところのある、広い広い景色。カメラもいい。音楽も少しセンチメンタルかなと思うくらいきれいなピアノ。ま、それで対位法的に地味な、暗めの内容を補完するという事でしょうかね。小津監督の悲しい場面には明るい音楽をという考えと同じ。

 写真は監督のクロエ・ジャオと主演女優のスナップ。いい映画を作るスタッフの素顔。

『ティル』についての偶然

 ちょっと分かりづらいタイトルをつけた理由はあります。

 『アメリカン・フィクション』を見てブログに書いた翌日に『ティル』を見ました。

 アマゾンでは何か映画を見た後、その映画を見た人が興味を持ちそうな映画を推薦してきます。役に立つようなうっとうしい?ような。

 でもそうでもなく『ティル』というタイトルが気になって見てみました。するとやっぱりアメリカではとても有名な黒人少年へのリンチ殺人事件についての映画でした。

 エメット・ティルというシカゴの14才の少年が親戚のいるミシシッピに遊びに行ってリンチにあうのです。シカゴでも人種差別はあるけれど、南部とは違います。その事を母親は心配して、息子にアドバイスするのですが。

 でこの映画についてはアマゾンで初めて知って、何となく見ました。でも少年の遺骸についての情報はあったので、映像で見る事に少し(けっこう)ためらう気持ちも。

 映画はその場面は重要でしたが、少年の母親の差別撤廃につながる行動に心うたれて。

 で今日買った『文春』の「言霊USA」(町田智浩)を読むと、『アメリカン・フィクション』について書いていました。へ~すごい偶然だなと思っていると、そのコラムの中で原作者パーシヴァル・エヴェレットの他の作品についてふれているのです。

 2021年のThe Treesという作品ではではエメット・ティルを殺害のきっかけになった白人女性キャロラインの親戚(夫と弟の息子たち)がリンチにあったように殺害される話。このキャロラインの夫と弟がリンチの主犯です。でも陪審員がみな白人の裁判で無罪になります。その辺は曖昧に描いているようですが、その無念を晴らすかのような事件。「木」はリンチに使われた木の事だろうか。リンチを暗喩する、象徴的な木。

 とても強く記憶に残っている写真があります。1960年代のアメリカの黒人リンチの写真で、ビリー・ホリディの歌で有名な「奇妙な果実」のように木からぶらさがっています。しかもそれを見ているのが白人男性ばかりではなく、女性や子供も気軽に見ているという奇妙に恐ろしい写真でした。

 2重につながった。一昨日見た映画について今日買った週刊誌でふれているのも偶然ですが、その中で昨日から今日にかけて見た映画にもつながる。

 でも元々アメリカの黒人問題についての小説の映画化と、有名なリンチ事件についての映画と小説なので、つながる可能性は高い。とは言え・・・

 母親は息子の遺体を公開します。その強い(強くなった)母親は、公民権運動の闘士となる。母親メイミーを演じる女優ダニエル・デッドワイラーが重要です。メイミーの母親にはあのウーピー・ゴールドバーグが。言われるまで分かりませんでした。彼女はこの映画のプロデューサーでもあります。

 ダニエルはスペルマン・カレッジという黒人女性のLiberal Arts College(教養大学と言っていいかな)で学士号、コロンビア大学修士号、そしてアッシュランド大学では芸術の修士号を取っている勉強家、才媛ですね。

 しかも彼女が学位を取っている3つの大学のうち2つについても僕も通った事があります。コロンビア大学についても何回も書いていますが、オハイオ州にあるアッシュランド大学についても書いていました。ジャズ・ギターのジョン・スコフィールドオハイオ州デイトン出身と知って、その近くのアッシュランドのカレッジで1か月英語の研修を受けた事を2年前の3月のブログで書いていました。そのカレッジはその後ユニヴァ―シティになりダニエルがクリエイティヴ・ライティングで修士号を取ったのでした。

 前述のキャロライン。少し太っているけれど、きれいと言えなくもない。誰かに似ているなぁと感じていました。ヘイリー・ベネットでした。びっくり。デンゼル・ワシントンの『イコライザー』で娼婦のクロエ・グレース・モリッツの友人役。同じワシントンの『マグニフィセント・セブン』(『荒野の7人』のリメーク)でガンマンを雇う女性。

 話が飛んで、息がきれました。僕的にはけっこう重い話でもありますので。ここで一休み。

 2022年、事件後67年たってやっとエメット・ティル反リンチ法が制定されたらしい。でも「もしトラ」が実現したら、これも無効化されるかも知れない。

 

 

 

『アメリカン・フィクション』とメタ的視点

 アマゾンで見ました。黒人作家が主人公の話です。主演が『バスキア』(1996)でバスキアを演じたジェフリー・ライト。2006年の『カジノ・ロワイヤル』からフェリックス・ライターを演じています。僕の記憶で、白人が演じていたCIAの捜査官で、ジェームズ・ボンドに協力する役。でも上司のMも女性(ジュディ・デンチ)が演じるように、ジェンダーや人種を意識する配役になってきていた。でもそんなに原作(イアン・フレミング)とちがっていいのだろうかとも思います。

 それと最近は『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2011)に大きくはないけれど、重要な役で出ていました。

 さて何となく見たけれど、けっこう印象に残る映画『アメリカン・フィクション』(2023)について。ネットっ上でもいろんな切り口の紹介がありますが。

 『アメリカン・フィクション』というタイトルは普通に「アメリカの小説」という意味になります。映画では小説=フィクションが紋切り型のアメリカ、アメリカにおける紋切り型の黒人しか描かれていない事に、フィクションの作り手である主人公の作家(黒人男性)が怒っている。紋切り型?でヒットした黒人女性作家にも。これが基本的で表層的な主題かな。「アメリカの黒人」についてのイメージ。

 さらに「アメリカという虚構」という意味を連想させる。それはたぶんそれは正しくて、そのように思わせるようにタイトルを付けていると思います。アメリカと言う社会がきちんと認識されていない。その不確かな理解が「アメリカという虚構」。または僕たちが「イメージするアメリカそのものが虚構」であるとも。

 さて、紋切り型についてもう少しちゃんと考えると、フィクションにもつながります。先述のようにイメージと言い換えてもいい。若い黒人男性(犯罪容疑者)が警察官に銃で撃たれるとか、黒人女性のシングル・マザーの苦境とか、事実ではあるけど。それを描けば売れると言う出版業界に迎合した小説家に違和感を覚える主人公。僕も軽く違和感を覚えますが、ちゃんとした?小説を書いている黒人作家なら、黒人として作家としての自分のアイデンティティを揺すぶられるような焦燥感も。

 主人公はボストンの裕福な家の出で、ロサンゼルスで大学教師兼作家をしています。英語のwikiではupper classと表現されていますが、「上流階級」とまでいなかいのでは。中流の上くらい。家族は医者が多い。亡父や姉や兄が医者。別荘としてビーチ・ハウスも持っている。でも離婚したり、ゲイだったり。こう言う表現自体が差別か。またローンが残っていたり。認知症の母親を施設に入れる資金を兄弟で工面したり。お金持ちではないようです。

 一方、この映画は「アメリカ」についてというメタ的な視点から、さらに主人公が書く小説についても、描いています。さらに主人公が売れるために書いた小説の映画化について複数のエンディングが検討される点では、メタ映画的な映画でもある。「~について」が多いメタ的な作品ともいえます。

 つまり「小説についての小説」がメタ・フィクションと言われるように、『アメリカン・フィクション』という映画の中で、映画のエンディングのような、映画について語られるので、メタ映画的と言っていいと思います。

  そして遡って言えば、小説家が主人公の小説は最初から「小説(家)についての小説」≒メタ・フィクションである訳で。ある意味で現代の様々な事象に対する言説は「~について」なので、「~」が言葉や小説なら、「~について」で語る道具が言語なのでメタになってしまう。語る対象と、語る道具が同じものになる、ある種のチャイニーズ・ボックス。よくロシアのお土産マトリューシカが分かりやすいので。

 この話は重要ですが、説明が難しい(本人もよく分かっていない?)ので、別項で。

 主人公はセロニアス・エリソンという名前なので、有名なジャズ・ピアニストであるセロニアス・モンクからモンクと呼ばれる。家政婦からもMr.Monkと。でも母親からmonekyって呼ばれている。モンク(修道僧)のように堅苦しいと同時にモンク(ジャズ・ピアニスト)のように「いたずらっ子」。母親だけが息子の本音を知っていて、愛称としてmonkeyって呼ぶのかな。映画の終わりころに「愛されたがっているのに、愛されるような振る舞いをしない」と言われるモンク。

 因みにアメリカの小説の翻訳で困る事なんですけど、兄弟・姉妹について、brother, sisterだけでyoungerもolderもつけない。でも日本語では「兄」、「姉」、「弟」、「妹」という年齢の区別が必須になる。でも英米の文化では年齢による長幼の序なんて関係ない。長編小説ですと、どこかで年令に関する情報が出てきて分かるのですが、短編ですと勘?で決めてしまうような。ネットの説明でもリサは姉だけど、クリフは弟になっている。映画では兄。たぶん会話の中で、兄か弟か区別できる表現が出ているんでしょうね。または勘?だろうか。

 写真は左から兄(いちおう)のクリフ、姉のリサ(ダイアナ・ロスの娘です)、そしてセロニアス(主人公)、ライバルの女性作家、恋人。