アラン・パーカー、ファンタジーとリアリズム

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   イギリスの映画監督アラン・パーカーが7月31日76才で亡くなった。

 大学に入った頃『小さな恋のメロディ』(Melody, 1971)がビージーズの主題曲と共にヒットしました。これは原作と脚本だったようで、『ダウンタウン物語』(1976)では『タクシー・ドライバー』で注目されたジョディ・フォスターの子供が大人を演じるファンタジー的なギャング物語。

  1978年の『ミッドナイト・エクスプレス』はトルコで麻薬所持・密輸で投獄されたアメリカ人青年が脱獄を図る物語で、主演のブラッド・デーヴィスは繊細さとワイルドな雰囲気の共存する個性でファズビンダーの『ケレル』での主演も原作がジャン・ジュネ、デーヴィスが41才で亡くなった死因もエイズなのでバイセクシュアルだと言われいます。

   さて1980年の『フェーム』は主演の一人のアイリーン・キャラの歌う「フェーム」がヒット。ニューヨークのパフォーミング・アートの学校の生徒たちの物語。日本語のwikiでは音楽専門学校となっていますが、ダンスあり、スタンダップ・コメディアン志望の青年もいたりで、日本語では何と訳すのでしょうね。芸能専門学校でも芸術専門学校で少しへんだし。ここでのランチ・タイムの食堂で楽器を弾いたり、ダンスをしたり盛り上がって行って、学校の建物から通りに出て行ってお祭りのようになる場面がとても面白く印象に残っています。『ラ・ラ・ランド』(2016)でも似た様なシーンがありました。

  『エンゼル・ハート』(1978)はダーク・ファンタジーというかホラーというか、探偵が依頼された人探しの対象が自分だったという、アイデンティティー、悪魔主義、恐怖と暴力のおとぎ話という感じです。原作の舞台はニューオリンズで南部ゴシック映画にもありえたのですが、映画はニューヨーク。依頼人ルイ・サイファー(ロバート・デニーロ)はルシファーで、探偵(ミッキー・ローク)は悪魔に見いだされた異常性格者・犯罪者であった。

  1988年の『ミシシッピ・バーニング』は社会派リアリズム路線のパーカー作品で、けっこう面白く授業でも使いました。今週も学生に紹介します。

 1991年の『コミットメンツ』はアイルランドの音楽グループの若者たちのドラマで、主人公はまとめ役と言うかプロデューサー役、歌手は見た目も性格もよくないけれど、ブルー・アイド・ソウルの歌い手という設定。アイルランドの若者の生態というか生活も活写されていて面白く、原作者のロディ・ドイルの『スナッパー』、『ヴァン』、『バディ・クラーク・ハハハ』も英語と翻訳の両方を買った(読んだと言えない)のでかなり気に入ったようです。

 最後に『アンジェラの灰』(1999)はアイランド生まれの男女がニューヨークで出会い結婚し、子供が生まれ苦闘するやはり社会派リアリズムと言えそうな作品ですが、あまりお薦めしません。

 こうやって見て行くとアラン・パーカーは音楽に関する作品(ピンク・フロイドに関する作品もあります)、ファンタジー的な作品、リアリズム的な作品と多様で、質のいい映画を作り続けてきたように思えます。楽しんだり、勉強になったりしました。ありがとうそして合掌。

  写真は『エンゼル・ハート』。まだ格好いい時のミッキー・ロークと年をとっても素敵なシャーロット・ランプリング

すし善と・・・

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  3月に大丸デパートに行った時、すし善に入ろうと思っていたら休業だったので、隣の宮川(うなぎ)かつな八(天ぷら)に入った記憶があります。カウンターでの寿司は1年ぶり以上。11時の開店前は3人ほど並んでいたけれど、カウンターの端に座ってビール、日本酒(八海山)を飲んでいるうちにけっこう混んできました。のんびりお好みでつまむ雰囲気ではない。写真も撮りずらいので6月に出前で頼んだ握りの寿司でお茶を濁して。

 すし善は道外で一番有名な札幌のすし屋だろうと思います。一番おいしいとは思わないけれど、そこそこの味で見た目もいい。25年以上前に結婚する前のかみさんと円山公園でデートする時にすし善の折りを作ってもらったけれど、見た目がとてもきれいな寿司でした。今回はマグロの漬けとサバ、穴子(焼いてある)がよかった。山わさびとか柚子の皮などちょっとした工夫が老舗の味にもなっていると。小肌はまだ新子なので物足りないか。

 買い物はコーヒーのドリップ・ケトル、ブイヨンのスプーン(小匙と大匙の中間の大きさ)など。

 朝の音楽はマーク・コープランドのピアノとラルフ・タウナーのピアノ・デュオ。1994年のSong without Endです。マイルスのNardis、ジョビンのZingaroなど休日の朝にぴったりです。

『フォークナー』 巻頭エッセイ

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   去年の3月に依頼され、6月から半年くらいかけて書いた原稿が雑誌に掲載され,、昨日手元に届きました。『フォークナー』第22号です。フォークナー研究とは無縁の僕に依頼があった理由はまだ謎ですが、いつか関係者に聞いて見ようと思っています。しかしその出版をしていた松柏社がこの号をもって担当を降りるという知らせがありました。もちろん松柏社が会社をやめる訳でも、協会の機関誌『フォークナー』が終わる訳でもありません。

 英語の教科書出版をメインとして、英米文学の文学書の発刊もしている出版社はこの間、文学離れもあってずいぶんと苦労をされています。後者は出版社の文化的貢献としてある意味利益を度外視しての事でもあり、感謝しています。松柏社の社長はニューヨークが好きで、2000年に1980~2000年のニューヨークの文化と文学を検討するシンポジウムを北海道支部がやった時にすぐそれを本にしないかと司会に持ち掛けて、講師の一人である僕もヒップホップ論と黒人映画論を担当して、2001年のニューヨークで後者の原稿を書いていました。

 『フォークナー』の方は社長のお嬢さん(副社長)が担当して、アメリカ文学会の歴代会長のうち二人がそのままフォークナー協会の会長でもあって、僕も面識があります。というかお二人とも北海道支部の会員となって頂いて支部大会の講演やシンポにも参加してもらったり。実は今回の原稿依頼はその辺りかなと。

 この巻の特集「アメリカ文学ミシシッピ川」の執筆者も関西のS内さん、中部支部のN畑さんがいますが、関西のM岡さんは一時釧路の公立大にいて北海道支部会員でもありますが、残念ながら昨年3月に40代で急逝されました。一つの機関誌をみてもいろんな歴史や物語があるとあらためて思いました。

 写真では「アメリカ文学ミシシッピ川」がはっきり見えますが、その下にあるのが僕の書いた「フォークナー/ノワールポストモダン」です。

「出たくない」のか

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  この新型コロナ・ウィルスに対応する生活様式を守っています。と言うのはもちろん冗談で、68才の退職者の生活に不急の外出はない。不要の外出は(あまり)しない。ランチを兼ねての買い物は手帳を見ると6月の半ば以来ない。もっとも6月の末から4回授業があって、帰りに少し買い物をしていましたので。

 それがこの10日間授業がないし、これからの10日間もないので、食料が・・・もちろんありますが魚は東急デパ地下の浜藤の鮭かサバがメインなので、肉が続いています。西野の生協か山の手のラッキーで魚を調達しようと思っていますが、なかなか決心が。

 「出たくない」というのは、6月も2回、今回も2回出かけようとして果たせないという足踏み状態が続きました。いつも早目早めに家を出てバス停で待つという慎重というか、用心深いと言うか、小心と言うか。千歳でも離陸の1時間以上前についてしまいます。それが目の前でバスが行ってしまう。次はやはりバス停の直前で忘れ物に気づき家に戻ると玄関にスマホが置いてありました。

 この計4回の出がけの失敗はもしかして無意識の「出かけたくない」によるものではと俗流心理主義の判定を下してみました。これはあり得る。でも単に老化によるもの忘れや判断力の低下かも。テニスも週5回もしているので、少し飽きてきて、かつ利き腕の胸の筋肉も少し痛いし。でもそう言っているうちに26年前に亡くなった母の祥月命日が土曜日にあるので、これは早目のお盆の墓参りを挙行する予定です。

 写真は東急デパの「天一」でビールと白ワインのグラスを一緒に持ってきてもらった時の。理由はビールは二口くらいで飲み干して、次のワインを追加するのが面倒なので。中華のお店ではビールと紹興酒のグラスが並びます。そう言えば6月の半ばの時はビールと日本酒(両関)がテーブルの上にあった。でもに日本酒1合よりもグラス・ワインの方が後の買い物が楽かも。

 さて大関貴景勝はカド番を脱しました。しかしやはり土俵際で貴景勝の手が対戦相手の御嶽海の体よりも先についていました。それでも相撲協会は何とか二人大関の状態を維持したいのだと。でもあの貴乃花の弟子の貴景勝ですからフェアでない勝ち方にスッキリしていないと思いたい。

フェアである事

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   一昨日の大関戦2つとも行司軍配に物言いがつき、朝之山戦は取り直して、貴景勝は軍配どおり大関の勝ちとなった。でもテレビの前でスローモーションを見ていると、どちらも大関の足が先に土俵の外の土に着いていました。行司は動きながら、4人の審判は自分の座っている位置で二人の関取の足と土俵を見て判断しています。その一人ひとりの限られた視点を5つ総合して決定を下すのですが、物言いのついた後の土俵での審判の協議の際には、イヤフォンでヴィデオの映像の結果も聞いていると思います。それでも元気な方の大関は取り直し、故障があって元気のない方の大関は軍配通り勝ちとなり、両大関とも応援しているけれど、すっきりしない結果となりました。

 またある関取が飲食で外出して親方から休場の措置を取られ、ある親方は飲み屋で泥酔して寝ている状況をSNSで流されて厳重注意となったようです。これも関取には厳しく、親方にはゆるい。不公平は世の中に蔓延しているけれど、目の前でしかも日本中の人が見ているところでやるかと思いました。僕はもともと体育会系とは縁がないけれど、頭を使わないで肉体を使う事に違和感を感じています。優秀なスポーツ選手は両方を使っていい成績を上げている。しかしなまじガタイのいい人はそれである程度やっていけるので、頭を使わないで頭角を現し、そのまま現役後は指導者になり、その肉体優先の方法を後輩に教えると言う悪循環になるのだと。

 でそういう人が仕切る相撲協会はふつうのフェアという事がまだ通用しない社会であるんだなぁと、去年の初場所あたりから見始めたビギナー・ファンもがっかりしました。

  写真は生協の花屋さんで見かけた紫が鮮やかなロべリア。野菜やハーブの菜園に少し花目、色がほしいでの買いたいと思いましたが、買い物の荷物を歩いて持ち帰るので諦めました。

訃報

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 オリヴィア・デ・ハビランド103才、山本寛斎76才、弘田三枝子73才。

 ハビランドがメラニーを演じた『風と共に去りぬ』(1939)は映画製作本数がピークの時のヒット作。1939年は『駅馬車』、『オズの魔法使い』、『嵐が丘』、『スミス都に行く』などメジャー(映画会社、スタジオ)がスタジオ・システムによって大規模な映画や名作を次々と生み出した。

 『風と共に去りぬ』ではハティ・マクダニエルがメイド役で黒人として初めてオスカーを受賞したが、女主人スカーレットのコルセットを締めるスチル(宣伝用写真)を見て、太った笑顔の使用人という黒人のイメージに違和感を覚えるようになったのは大分後の事だろうか。

 弘田三枝子は若い時のころころ太ってはいるけれどはつらつとした歌いぶりが印象に残っています。痩せて嵯峨三智子(山田五十鈴の娘)と同じような顔になった。美容整形の人工的な身体改造(損傷)について考えさせられます。

 ウッドデッキに置いたヒマワリの種(小鳥用に少し砕いたもの)を小雀が食べるようになりました。

先輩

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  菜園の手入れをしていたらうちの塀のところに駐車をしている知り合いのテニスの人が「(菜園に入って)いいですか?」と聞くので「いいですよ」と答えて菜園談義が始まりました。聞くと20年のベテランで初めて3年の僕の大先輩でした。年はいくつか下かな。ミニトマトの無駄な枝をバシバシ取ってくれて。テニス仲間にあげるべく車に用意していたさやいんげんもくれました。その後、少し一緒にテニスもして。

 もう一人の先輩はトランプ。これは半分冗談ですが、トランプの姪(兄の娘)が書いた本の中で、トランプがウォ―トン校(ペンシルヴァニア大学の経済・経営の名門学部・大学院)に入ったのは、兄が入学に手をまわしたからだと。そんな噂はけっこうあって、トランプが入学(卒業も)できた事でウォ―トンの評価が下がる、またはトランプっていちおう頭は悪くないかもと思ってしまいました。でもやっぱりコネだったようです。

 ウォ―トンは研究室が近かった経済学部の教員が在外研修で行ったと聞いていました。アメリカの大学は大学としてだけでなく、特定の学部が評価が高い事も多い。ウォ―トンがアメリカの大学で最初のビジネス・スクールだったそうです。日本の経営専門学校ではもちろんなくて、経済・経営関係の学部・大学院としてフィラデルフィアの実業家ウォ―トンが創設した。ハーバードも、スタンフォードも創設者の実業家の名前がついています。アメリカの大学自体がプロテスタントの牧師養成とかイギリスの紳士のようなジェントルマン育成の教養大学としてはじまっています。南北戦争後は州立の工科や農学のような実業の大学ができ、最終的に国立大学はできませんでした。国単位の制度が嫌いなんでしょう。

 さて姪によるおじさんは自己愛性の人格障害のようですが、その本を取り上げたコラムニストは世界のリーダーが同様のタイプが多いと結論付けていました。日本やその近辺の国、イギリスなど頷ける気がします。

  写真は7月3日以来の枝豆セクション。3種4回に分けて蒔きましたが、左上の休耕予定の場所に豆が余ったので蒔いたのですが、やはりあまり肥料をあげていないので明らかに成長が遅い。いかに土が大事かが実感できました。収穫は80日後なので6月はじめに蒔いたのはお盆過ぎに食べられる予定です。