『あらゆることは今起こる』をめぐって

 柴崎友香の『あらゆることは今起こる』(医学書院)を注文する。

 先に注文していたアマンダ・ゴーマンの『わたしたちの登る丘』(文春文庫)が届くと、偶然か巻末の訳者の対談相手が柴崎さん。

 その後に『あらゆることは今起こる』が到着、読みました。知り合いににADHDっぽい人がいるので、芥川賞作家のADHD診断をめぐる本を注文したのです。面白い。というかとても興味深いです。

 ADHDはattention-deficit/hyperactivity disorderの頭文字で「注意欠如多動症」と訳されるようです。それと「注意欠如」はあるけれど、「多動」ではない症状も多いようだ。また著者の様に、頭の中が「多動」である事も。薬を飲んだら、普通の静かな頭になるらしい。でももともと普通でないとしたら何が普通なのか分かるのだろうか。さらに普通とは何か。哲学的な思索に向かうような問題です。

 それとこの頭の中の「多動」が、出かける予定に対して着るもの、持って行くもの、移動の手段などの選択肢から決められず、遅刻をする事が多いらしい。知り合いにもありそう。

 また今日の朝刊でも書評欄で『あらゆることは今起こる』が取り上げられていました。

 その中の「障害」という言葉が英語ではdisorder。それに触発されていろいろと考えます。

 人間が混沌とした世界をとらえるのに、言葉や論理でorderを作り上げる。それに封じ込めないものはdisorderとして排除する。「秩序」にまとめられないものは、個人の病気もdisorder。個人の身体におけるdisorder。そして社会に溶け込めない人間もdisorderとして排除する。そのようにして社会や国家や集団はorderを守ってきた。

 中世や近世(封建時代)・近代もそうだった。啓蒙思想による近代のパラダイムは進歩と発展。前進するために皆で前を向いていく。それ以外の、立ち止まったり横にずれたり、後ろを向いているものは排除する。

 それが1960年代頃の近代以後(ポストモダン)のパラダイム・シフトにより、進歩や前進でなく、停止や停滞や後退もあり。統一ではなく混乱/分裂も認める。大きな物語(聖書や共産主義)よりも小さな物語があちこちに作られる。多様性の容認。

 それが個のありようにもやっと目が向けられてきたようだ。この20~30年だろうか、ポスト・ポストモダンの21世紀になって。身体・精神の統一ではなく、複数の時間が同時に流れて混乱したり、他者とのズレが一方を変人扱いせずに、両方ありだなと考える、など興味深い。

 そう言えば先日行きつけの酒場で久しぶりに遭遇した学部・大学院の先輩。詩人で武道家でもあるNさんは50年も前に一人他民族と言うような表現で個(人)の中の多様性について言っていました。

 僕的には、ポストモダン的なパラダイム・シフトがやっと個の身体感覚にも及んできたと新鮮でした。もちろん身近な人の問題解決にもとても参考になる(と思う)。そのdisorderの方が自然なので、それにゆっくりと対応する事が必要になる。

 『あらゆることは今起こる』の書評に下に『左利きの歴史』(白水社)の書評があって、これも個人的にシンクロするテーマでした。左利きの僕は社会の少数者として疎外されてきた訳ではないけれど。それよりも、小学校の野球で左投げ、テニスではサウスポーはけっこう有利になります。小さい時に左利きに矯正(強制?)された記憶もありません。

 しかも箸や書くのは右で、投げる、ラケットをもつのは左。これも一人の人間の多様性で面白い。ある意味で両手利きになり、右脳と左脳を使えて、老化防止にもなる(と思う)。

 で『あらゆることは今起こる』は1回さっと読んだので、今度はじっくりと読み直して、整理して知り合いに教えてあげよう。