『シティ・オブ・グラス』と発見

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 ポール・オースターCity of Glass (1982)を柴田元幸訳で再読しました。1989年に角川から訳が出ていますが、2009年に柴田訳が出ました。けっこう面白い。サブテキストはデヴィッド・マッケリーの漫画(講談社、1995年)。これも悪くない。

 クィンという主人公はかつては文学的な野心があったが、今はウィリアム・ウィルソンという筆名でミステリーを書いている。文学的な作品が「書けない」という点で、メルヴィルの「書記バートルビー」を連想するのは僕だ家ではないでしょう。当然と言うか後半に、メルヴィル自身が忘れられた作家として税関職員をしている事もふくめて言及がありました。

 さてクィンのミステリー観は挫折した文学観と微妙に連動している。例えば作者と探偵は入れ替え可能と言うのはずいぶんとミステリーの探偵を軽く見ているような。でも可能か。クィンにとって、私立探偵private I(プライベート・アイ)のIはinvestigatorの Iであるだけでなく、その発音の類似から作者の物理的なeye(アイ)でもあるという。その通りですね。探偵とは目で見る人、観察する人、時には窃視する人の事である。しかしクィンはウィリアム・ウィルソンの書く探偵ワークに自分の生を重ねて生きる。

 物語は間違い電話から始まるのだが、その電話はポール・オースター探偵事務所と間違えてかけてきたものである。オースターは物語内物語を技法上でよく使うけれど、名前についても同様で少しややこしい。

 もちろんウィリアム・ウィルソンはポーの同名短編で分身の物語。むかしアラン・ドロンで『世にも怪奇な物語』(1967)というオムニバスの1篇で「影を殺した男」(ルイ・マル監督)という映画になりました。変な映画だった(ような)。分身もまたオースター的なテーマの一つですが、分身ならぬ本人(ポール・オースター)も登場します。監視していた人物に逃げられたクィンは冒頭の間違い電話のポール・オースター探偵事務所を探して見つからず、探偵ではないポール・オースターを探して訪ねます。実はこの監視される人物と監視を依頼する人物がこの物語の中心なのですが、あまり魅力的ではないので割愛します。なんか中途半端に哲学的な会話が多いんですね。

 さてこの小説のポール・オースターは作家で奥さんはシリ、息子はダニエルとそのまんま。しかも奥さんは魅力的で、子供は可愛らしい。クィンは妻と息子を亡くしていて、この小説中のポール・オースターの幸せな状況とは大違いです。でもこの小説中のポール・オースターはクィンの挫折する前の詩集を読んでいて評価するので少しよかった。

 そして動向を監視するよう依頼された人物を待って、グランド・セントラル駅でナンタケットが写っている宣伝写真を見て、亡き妻と行った事を思い出すとともに、メルヴィルまで連想が働くのは作家の故だろう。それももう読者もいない老作家が税関で働いている。さらにクィンの眼にはバートルビーが労働拒否をする事務所の窓と、その前に立ちはだかるレンガの壁が見える。

 しかしクィンは冠詞に失敗して依頼人を失い、ノートを残して消えてしまった。そのノートをポール・オースター依頼人の家で見つけて、友人の作家(この物語の語り手)に渡して、その作家が書いたのが『シティ・オブ・グラス』という訳です。あ、これも額縁小説ですね。そして「書く事」が「書けない事」も含めて最初のクィンが書けない作家であると同時に書く作家である事、途中カットして、語り手がこの物語を書く事など遍在します。後は消滅というテーマ、依頼人である息子と父親の関係。物語中の(そして本物も)ポール・オースターの幸せな家族とクィンの家族の不在など。