『お菓子とビール』その2

  90年前の作品です。語り手のアシェンデン(名前を聞いたことがありますね)に、知り合いの作家アルロイ・キアから連絡が入る。最近亡くなった大作家ドリッフィールドの未亡人から伝記執筆の依頼を受けたアルロイは、晩年については知っているが、無名時代のドリッフィールドについては知らない。それで無名時代の作家夫妻と交流のあったアシェンデンに教えを乞う訳である。

 語り手のアシェンデンの心には、若い時(17才~21才)の田舎の叔父の牧師館、ドリッフィールドとその若い妻ロージーと自転車に乗っているときに知りあったことなどが浮かんでくる。物語は若き作家たち、その妻やパトロンの貴族の妻たちとの文壇の交流と、ロージーの魅力的な言動とそれに魅せられた男性たちが中心となって進んでいきます。

 代表作の『人間の絆』は若い主人公の成長と葛藤が描かれますが、特に奔放な、悪女と言ってもいいミルドレッドに振り回されるフィリップの現在の行動にやきもきして読むのに疲れる時もあります。しかし『お菓子とビール』はアシェンデンが若いころを回想する物語なので、語りにも余裕があり、読者もゆったりと読んでいられます。

 この作品の登場人物にはモデルがいます。ドリッフィールドはトマス・ハーディ、アルロイ・キアはヒュー・ウォルポールがモデルだとされています。ハーディはヴィクトリア朝後半のリアリズムの作家で、英文学好きでなくても映画化作品も多くて有名です。ヒュー・ウォルポールの方はちょうどハーディが亡くなった1920~30年代に読まれていたらしいです。現在は翻訳が数点あるだけです。そのうちの1点が北大文学部の長尾先生が訳しているのでアマゾンで注文しました。

 ハーディについても死後未亡人が編纂した伝記が「人に知られたくない秘密」を隠したことを批判しているモームは、確かに『月と6ペンス』でも、主人公の画家ストリックランドの死後、長男がきれいごとの伝記を書いた点を語り手(≒作者)が揶揄しています。アルロイ・キアはそれほど才能もないのに文壇をうまく動き回って、作家として成功した点でウォルポールは自分と似ていると感じて、モームにひどいじゃないかと抗議すると、モームは複数の人物を混ぜたので、君がモデルではないと言い抜けたらしいです。

でも前項でもふれたモダン・ライブラリー版の序文で、モームはハーディがモデルであることは否定して、ウォルポールがモデルある事は認めています。すでにウォルポールも亡くなっていました。ある批評家はモームウォルポールの文学的人生を破壊したと言っています。モームはハーディより30才年下、ウォルポールモームより10才年下になります。ともにゲイの作家でした。、

でアシェンデンがモームかというと、牧師の叔父がいて、医学生で作家である点は似ています。ドリッフィールドのモデルはハーディだとしても、ロージーモームの唯一の女性の恋人だった女性をモデルにして描いているので、ハーディの実際の第1夫人がモデルという訳ではない。ドリッフィールド≒ハーディ+アルロイ≒ウォルポールとロージーモームの恋人+アシェンデン≒モームという2つの組み合わせを物語の中で動かしているのだと思います。

 その点についても、アシェンデンがロージーと初めて関係する場面の直後に、1人称(僕)で語らなければよかった、間抜けに見えるからとアシェンデン(僕)≒モームである事を遠回しに認めているように読めます。大作家と自分の交流を書いているようで、自分の実らなかった結婚相手についての回想でもあると。また文壇における作家の評価、成功について才能や運以外の、文学好き、芸術好きのあまり好ましくない文壇回遊政治術について皮肉なタッチで描いています。『人間の絆』のような、生硬だけど初々しいような芸術論、人生論はありません。

 写真は前項でふれた『十二夜』のセリフ「自分が堅物だから、酒も肴も許さないってか」が使われているもの

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