『ティル』についての偶然

 ちょっと分かりづらいタイトルをつけた理由はあります。

 『アメリカン・フィクション』を見てブログに書いた翌日に『ティル』を見ました。

 アマゾンでは何か映画を見た後、その映画を見た人が興味を持ちそうな映画を推薦してきます。役に立つようなうっとうしい?ような。

 でもそうでもなく『ティル』というタイトルが気になって見てみました。するとやっぱりアメリカではとても有名な黒人少年へのリンチ殺人事件についての映画でした。

 エメット・ティルというシカゴの14才の少年が親戚のいるミシシッピに遊びに行ってリンチにあうのです。シカゴでも人種差別はあるけれど、南部とは違います。その事を母親は心配して、息子にアドバイスするのですが。

 でこの映画についてはアマゾンで初めて知って、何となく見ました。でも少年の遺骸についての情報はあったので、映像で見る事に少し(けっこう)ためらう気持ちも。

 映画はその場面は重要でしたが、少年の母親の差別撤廃につながる行動に心うたれて。

 で今日買った『文春』の「言霊USA」(町田智浩)を読むと、『アメリカン・フィクション』について書いていました。へ~すごい偶然だなと思っていると、そのコラムの中で原作者パーシヴァル・エヴェレットの他の作品についてふれているのです。

 2021年のThe Treesという作品ではではエメット・ティルを殺害のきっかけになった白人女性キャロラインの親戚(夫と弟の息子たち)がリンチにあったように殺害される話。このキャロラインの夫と弟がリンチの主犯です。でも陪審員がみな白人の裁判で無罪になります。その辺は曖昧に描いているようですが、その無念を晴らすかのような事件。「木」はリンチに使われた木の事だろうか。リンチを暗喩する、象徴的な木。

 とても強く記憶に残っている写真があります。1960年代のアメリカの黒人リンチの写真で、ビリー・ホリディの歌で有名な「奇妙な果実」のように木からぶらさがっています。しかもそれを見ているのが白人男性ばかりではなく、女性や子供も気軽に見ているという奇妙に恐ろしい写真でした。

 2重につながった。一昨日見た映画について今日買った週刊誌でふれているのも偶然ですが、その中で昨日から今日にかけて見た映画にもつながる。

 でも元々アメリカの黒人問題についての小説の映画化と、有名なリンチ事件についての映画と小説なので、つながる可能性は高い。とは言え・・・

 母親は息子の遺体を公開します。その強い(強くなった)母親は、公民権運動の闘士となる。母親メイミーを演じる女優ダニエル・デッドワイラーが重要です。メイミーの母親にはあのウーピー・ゴールドバーグが。言われるまで分かりませんでした。彼女はこの映画のプロデューサーでもあります。

 ダニエルはスペルマン・カレッジという黒人女性のLiberal Arts College(教養大学と言っていいかな)で学士号、コロンビア大学修士号、そしてアッシュランド大学では芸術の修士号を取っている勉強家、才媛ですね。

 しかも彼女が学位を取っている3つの大学のうち2つについても僕も通った事があります。コロンビア大学についても何回も書いていますが、オハイオ州にあるアッシュランド大学についても書いていました。ジャズ・ギターのジョン・スコフィールドオハイオ州デイトン出身と知って、その近くのアッシュランドのカレッジで1か月英語の研修を受けた事を2年前の3月のブログで書いていました。そのカレッジはその後ユニヴァ―シティになりダニエルがクリエイティヴ・ライティングで修士号を取ったのでした。

 前述のキャロライン。少し太っているけれど、きれいと言えなくもない。誰かに似ているなぁと感じていました。ヘイリー・ベネットでした。びっくり。デンゼル・ワシントンの『イコライザー』で娼婦のクロエ・グレース・モリッツの友人役。同じワシントンの『マグニフィセント・セブン』(『荒野の7人』のリメーク)でガンマンを雇う女性。

 話が飛んで、息がきれました。僕的にはけっこう重い話でもありますので。ここで一休み。

 2022年、事件後67年たってやっとエメット・ティル反リンチ法が制定されたらしい。でも「もしトラ」が実現したら、これも無効化されるかも知れない。

 

 

 

『アメリカン・フィクション』とメタ的視点

 アマゾンで見ました。黒人作家が主人公の話です。主演が『バスキア』(1996)でバスキアを演じたジェフリー・ライト。2006年の『カジノ・ロワイヤル』からフェリックス・ライターを演じています。僕の記憶で、白人が演じていたCIAの捜査官で、ジェームズ・ボンドに協力する役。でも上司のMも女性(ジュディ・デンチ)が演じるように、ジェンダーや人種を意識する配役になってきていた。でもそんなに原作(イアン・フレミング)とちがっていいのだろうかとも思います。

 それと最近は『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2011)に大きくはないけれど、重要な役で出ていました。

 さて何となく見たけれど、けっこう印象に残る映画『アメリカン・フィクション』(2023)について。ネットっ上でもいろんな切り口の紹介がありますが。

 『アメリカン・フィクション』というタイトルは普通に「アメリカの小説」という意味になります。映画では小説=フィクションが紋切り型のアメリカ、アメリカにおける紋切り型の黒人しか描かれていない事に、フィクションの作り手である主人公の作家(黒人男性)が怒っている。紋切り型?でヒットした黒人女性作家にも。これが基本的で表層的な主題かな。「アメリカの黒人」についてのイメージ。

 さらに「アメリカという虚構」という意味を連想させる。それはたぶんそれは正しくて、そのように思わせるようにタイトルを付けていると思います。アメリカと言う社会がきちんと認識されていない。その不確かな理解が「アメリカという虚構」。または僕たちが「イメージするアメリカそのものが虚構」であるとも。

 さて、紋切り型についてもう少しちゃんと考えると、フィクションにもつながります。先述のようにイメージと言い換えてもいい。若い黒人男性(犯罪容疑者)が警察官に銃で撃たれるとか、黒人女性のシングル・マザーの苦境とか、事実ではあるけど。それを描けば売れると言う出版業界に迎合した小説家に違和感を覚える主人公。僕も軽く違和感を覚えますが、ちゃんとした?小説を書いている黒人作家なら、黒人として作家としての自分のアイデンティティを揺すぶられるような焦燥感も。

 主人公はボストンの裕福な家の出で、ロサンゼルスで大学教師兼作家をしています。英語のwikiではupper classと表現されていますが、「上流階級」とまでいなかいのでは。中流の上くらい。家族は医者が多い。亡父や姉や兄が医者。別荘としてビーチ・ハウスも持っている。でも離婚したり、ゲイだったり。こう言う表現自体が差別か。またローンが残っていたり。認知症の母親を施設に入れる資金を兄弟で工面したり。お金持ちではないようです。

 一方、この映画は「アメリカ」についてというメタ的な視点から、さらに主人公が書く小説についても、描いています。さらに主人公が売れるために書いた小説の映画化について複数のエンディングが検討される点では、メタ映画的な映画でもある。「~について」が多いメタ的な作品ともいえます。

 つまり「小説についての小説」がメタ・フィクションと言われるように、『アメリカン・フィクション』という映画の中で、映画のエンディングのような、映画について語られるので、メタ映画的と言っていいと思います。

  そして遡って言えば、小説家が主人公の小説は最初から「小説(家)についての小説」≒メタ・フィクションである訳で。ある意味で現代の様々な事象に対する言説は「~について」なので、「~」が言葉や小説なら、「~について」で語る道具が言語なのでメタになってしまう。語る対象と、語る道具が同じものになる、ある種のチャイニーズ・ボックス。よくロシアのお土産マトリューシカが分かりやすいので。

 この話は重要ですが、説明が難しい(本人もよく分かっていない?)ので、別項で。

 主人公はセロニアス・エリソンという名前なので、有名なジャズ・ピアニストであるセロニアス・モンクからモンクと呼ばれる。家政婦からもMr.Monkと。でも母親からmonekyって呼ばれている。モンク(修道僧)のように堅苦しいと同時にモンク(ジャズ・ピアニスト)のように「いたずらっ子」。母親だけが息子の本音を知っていて、愛称としてmonkeyって呼ぶのかな。映画の終わりころに「愛されたがっているのに、愛されるような振る舞いをしない」と言われるモンク。

 因みにアメリカの小説の翻訳で困る事なんですけど、兄弟・姉妹について、brother, sisterだけでyoungerもolderもつけない。でも日本語では「兄」、「姉」、「弟」、「妹」という年齢の区別が必須になる。でも英米の文化では年齢による長幼の序なんて関係ない。長編小説ですと、どこかで年令に関する情報が出てきて分かるのですが、短編ですと勘?で決めてしまうような。ネットの説明でもリサは姉だけど、クリフは弟になっている。映画では兄。たぶん会話の中で、兄か弟か区別できる表現が出ているんでしょうね。または勘?だろうか。

 写真は左から兄(いちおう)のクリフ、姉のリサ(ダイアナ・ロスの娘です)、そしてセロニアス(主人公)、ライバルの女性作家、恋人。

パレスチナは難しい

  新聞の土曜の書評欄で『エドワード・サイード ある批評家の残響』が紹介されていた。執筆者は中井亜佐子さんという一橋大の英文学者。僕も英米文学研究の端くれ?ですが、名前は知っていました。

 その書評に「パレスチナに生まれアメリカに亡命し、『オリエンタリズム』やパレスチナ関係の著作を残したサイード」とあって、そこに少し疑問を感じたのでした。

 どこに。僕の記憶ではイスラエルに生まれたアラブ系の人であった。あとからパレスチナアメリカ人の文学批評家と自分の中では修正された。

 でもこれも不正確だった。この不正確な知識は、自分のせいでもあるけれど、中東の歴史の複雑さの故でもある。

 Wikiでは「キリスト教徒のパレスチナ人としてエルサレムに生まれる」とあり、これもすぐには理解できない。

 まずパレスチナという場所と、パレスチナ人の簡単な定義を知りたい。

 パレスチナ西アジア地域。通常はイスラエル、ヨルダン西部の一部、ヨルダン川西岸地区ガザ地区を含む。うん、つまりイスラエルパレスチナ地方にふくまれる。それって常識のレベルか、自分でも判断がつきません。無知な老人なのか。

 さてパレスチナ人はパレスチナ地方に居住するアラブ人。多くはイスラム教徒。ではユダヤ人はアラブ人ではないか。いっとき「日本人でも、ユダヤ教徒ならユダヤ人」という、かなり変な言説がありましたけれど、これはユダヤ人にとっていかにユダヤ教が重要なという事の極端な表現だったと思います。

 サイードは、人種的にはアラブ人、生まれたのはエルサレムパレスチナの一部)、宗教的にはキリスト教、そしてアメリアに移住したのでパレスチナアメリカ人となります。イスラム教徒ではない。人種、民族(宗教もふくむ文化的な区分)、出身地、移住先もふくめて総合的に考えないといけない(ので面倒?)。

 さてサイードの出自にこだわるのは、その著作にも『パレスチナへ帰る』とか『故国喪失についての省察』とあり、関心があります。『イスラム報道』もあるか。一方で、ユダヤ人の音楽家ダニエル・バレンボイムとの交流も有名。『バレンボイム/サイード 音楽と社会』という二人の対談本も本棚にありました。

 僕はサイードに興味を持つ前に、ピアニストのバレンボイムについて名前だけは知っていました。その後の指揮者にもなり、そして悲劇のチェリスト、ジャクリーヌ・デュプレとの結婚も。彼女は病気のため42才でなくなり、死後『ほんとうのジャクリーヌ・デュプレ』という映画もありました。

 2001年の4月から9月までコロンビア大学に客員研究員として在籍した時に、サイードの名前が英文科にありました。一度お会いしたいな。講義でも聞けないかなと思っていました。するとある時、パレスチナ側からイスラエルに投石する人たちの中にサイードがいて、その写真が新聞に載ったのを覚えています。

 確かに僕のいた時期は、5月に卒業式があって、9月の新年度まで夏季休暇でもあったのでした。キャンパスで卒業式の準備をしていました。行先の大学のスケジュールに疎いとんまな研究員で、コロンビア大学の図書館はよく利用しました。

 ちょうど宇多田ひかるが在学していたようで、日本のメディアが来ていました。もう中退していたのかな。あのアリシア・キーズはちゃんと卒業しました。

 9.11の時は、札幌からのアナウンサーY・E子さんが取材に来ていたようです。彼女は僕の英語のクラスにいて、今H学園でS課の課長をしているK君と何人かでコンパをやった記憶も。

 すぐ話が脱線してしまう。写真はコロンビア大学のキャンパスで。広くないはないけれど、コンパクトで落ち着いた雰囲気でした。

歯科医、床屋、wifi、書評

  火曜日は歯のかぶせ物?が取れたので治療に駅前のいつもの歯医者さんに行きました。

 2008年から通っている3つ年下の優秀で人柄のいい歯科医です。ロックに詳しくて、Allman Brothers BandのCDをもらった事も。

 で予約の間に割り込ませてもらい、治療。忙しいので雑談はなし。

 ランチまで時間があるので、北大付属図書館に利用証の更新に。コロナ前は図書館内でwifiが使えたと思うのですが、現在は学内の人だけ。でも係の人がeduroamは使えますよと。eduroamについては後述。

 春分の日は近所の床屋さんへ。ここは高1から55才まで40年住んでいた家の、通りをはさんで向かいにあります。2007年に800mほど離れた場所に引っ越しました。でも床屋さんは同じところ。ここは店主が同い年で誕生日も1日違い。

 店の窓に3月31日で閉店とある。中に入って聞くと膝が悪いそうだ。職業病でもあるか。旧居の向かいだったので、なくなったおふくろが庭いじりをしていましたよ、というような昔話も聞ける。なくなると聞くと大事な場所でもあった。あまりお酒を飲まない人ですが、ご苦労さん会でもしようかなと。42年営業したとか。

 さて三題噺の最後のwifiについては、eduroamというこの1年くらい学会支部で耳にする名前です。education+roam(ぶらつく)からの造語で、教育・研究機関に向けての国際的なwifi利用のためのネットワークの様です。

 この間、藤女子大で研究会がありましたが、藤のwifiを使わせてもらおうとしましたが、仲間はeduroamでwifiにつなげ、Zoomに参加している。ところが北海学園でやったときには学園がeduroamに参加していないので使えない。庶務課でportable wifiを貸してくれてよろこんでいましたが、他の研究者はどうして学園はeduroamに入っていないのでしょうねと思っていたようです。

 つまり所属大学がeduroamに参加していれば、自分の大学のメール・アドレスでeduroamが使えるように設定して、その後はeduroamに入っている大学ではそれでネットにつなげられる。と言う事のようです。僕は詳しくないので、知り合いの表現をそのまま使っています。

 さて最後は、支部会員の出した本の書評を書く仕事。支部機関誌へ提出する原稿です。これは仕事と趣味を兼ねている。

 そうだ北海学園の元同僚が出した『40歳から凡人として生きるための文学入門』。

これについては次項で。

 

憲法とボブ・ディラン

 同性婚について、札幌高裁で「違憲判決」。

 これはよかったけれど、憲法第24条1項の「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として」について、「判決は、1項の『両性』という文言だけでなく、目的も踏まえて解釈すべきだと指摘。」と朝日新聞の3月15日の朝刊1面に報道されていました。

 「~だけでなく、~も踏まえて」という"not only but also"にも似た表現は、「両性の合意」についてここではふれられないので、「目的」の方に注目したと推測しました。 

 つまり「違憲」=「憲法に反する事」にのみ注目されているように見えます。確かに判決が今までよりもずいぶんと進んだ判断かも知れないけれども、憲法が「「婚姻は両性の合意のみに基づいて」としている点について、スルーしているような気がしてなりません。憲法が何か絶対的な、不可触なもののように考えられている。そんな憲法自体が見直されるべきではないのと思ってしまいました。

 確かに僕も50年前は「両性のみ」に疑問を持ちませんでしたけれど。そんな遅れた?僕でさえも「同性婚」について理解しつつあるのに、憲法はもっと遅れている。そしてその事をこのような重要な判決でもふれないのは、気が付かなくてスルーしたのではなくて、それはふれていけない事として意図的に?スルーしたのか。

 憲法を変える=憲法改正というと、平和憲法といわれるその根幹でもある、不戦≒自衛についても一緒に議論しなければならないからかな。

 最近ボブ・ディランに目覚めて?けっこうアイフォンでも、Boseでも聞いています。

 My Back Pages, All Along Watchtower, One More Cup of Coffeeなどなど。

 調べると20枚近く持っていました。アメリカ音楽について授業をするときにでも買ったような。バックバンドだったThe Bandと一緒よりも、Greatful Deadとのライブの方がいいようにも聞こえます。NHKの「アナザー・ストーリー」では、ディランのニューポート・フォーク・フェスティバルでの反響とノーベル賞に絞った構成とインタビューがあまり参考になりませんでした。残念。

 でディランなら同性婚憲法について、どう言うだろうか。差別と平和と自由の実現の難しさを歌った"Blowin' in the WInd"のように、「答えは風に吹かれて」≒ すぐそこにあるのになかなか手に入らない。

『ウサギ』と『逃走論』

 アップダイクの発表から「改訂」の話がらみで、レイモンド・カーヴァ―再読に少し行きました。でもその前に『走れ、ウサギ』に関係して、研究会から懇親会に向かう途中でO先生が『逃走論』(1983年)も関係しますよねと話していました事もあって。

 その前にブログでアップダイクとエミネムについて書きましたが、Rabbit Runについて新しい情報がみつかったので、それから。

 アップダイクの『ウサギ』4部作の序文でも1939年のノエル・ゲイとラルフ・バトラーが作ったコミック・ソングRun, Rabbit Runについてふれていました。

Run, Rabbit Runは農場で飼われているウサギが、ラビット・パイに使われるという事で逃げ出す。コミックなような、でもブラックでもある。それでティム・バートンの作品などホラー、ゴシック的な映画に使われ続けています。

 そして2年前のインタビューで浅田彰が『逃走論』発表40年?について回顧していました。70年代に全共闘世代を代表とする左翼的な運動とイデオロギーが行き詰まり、連合赤軍事件が起きた。「革命家としてのアイデンティティー」に固執しないで「逃げる」道を選んだ方がよかったのにと。

 奇しくも先月、50年近く「逃げ続けた」東アジア反日武装戦線のK容疑者が亡くなった。逃走/逃亡の日々がどのようなものだったか知る事はできないが、気楽な人生だったとは思えない。それにしても仲間同士でゲバルトを繰り返すよりはよかったのだろう。でもそれにしても逃げ続ける日々とは・・・

 「走って」「逃げる」事の意味は重要だと思います。システムや制度の柵(しがらみ)にとらわれる事なく、自由に向かって逃走する。でも今度は70を超えて、何から「逃げる」のか・・・

 写真はデュフィの「グッドウッドの競馬」(1935年頃)です。「走る」という無理やりな共通項で。

『ノー・カントリー』再見

 『ノー・カントリー』を99円という値段にひかれてアマゾンで再見。感想を書こうとして前にも書いたことを思い出しました。

 少しずるっこというかさぼりですが、今はきちんと論じる余裕がないのと、14年前の内容も悪くはない?ので、2009年3月1日の旧「越境と郷愁」のブログを再録。

 と言うのは研究会のアップダイクの発表の後に、懇親会でレイモンド・カーヴァーの「改訂」が話題になり、その確認作業と、4月1日締め切りの書評の準備があって。時間はいくらでも?あるのですが気持ちの余裕がない。それで昔の自分のブログで。かつ原作も再読中。これもけっこうおもしろい。

キネマ旬報』の2月下旬号に今年のベスト・テンが載っているが、ベスト・ワンが『ノー・カントリー』だった。例によって原作とDVDを比べてみる。映画では組織の金を奪ったモス(ベトナム帰還兵)を追う殺し屋のシュガーがスペイン人俳優ハビエル・バルデムの怪演によって際立つ。
 殺人鬼シュガーを究極の悪、純粋悪と呼べるようなその悪の造型が物語を単純にしているようにも思える。誰も勝てないような悪はその容姿や殺し方も含めて笑ってしまうような登場人物にも思える。監督・脚本がコーエン兄弟なのでオフ・ビートな犯罪映画と考えれば、無敵の殺人鬼は不気味であるが、同時にリアリティを超えてファルス(笑劇)的な人物と化す。モスとシュガーを追う保安官ベルにはまたもT・L・ジョーンズ。
 原作の翻訳者(黒原敏行)の解説によれば、シュガーは人間の傲慢さ(ヒューブリス)を懲らしめるネメシス(ギリシャ神話の怒りの女神)だとするが、だとするとギリシャ悲劇はそのまま人間の愚かさを笑う笑劇でもあるのだろうか。
 また原作ではベル保安官の独白がストーリーの合間に挟まれるのだが、映画では他の人物との対話に置き換えられている。映画の視点は基本的にカメラの三人称なので、登場人物の独白はボイス・オーヴァーで語られる事が多い。多用すると物語がとまるのでダイアローグにしたのかなと推察。T・L・ジョーンズは自分は死を覚悟しているのに、助けたいと思っている人たちが殺されて行くのをなすすべもなく見ているしかない無力な保安官を演じて、『告発のとき』のような精彩がない。

 

2,017年1月17日のブログから

 コーマック・マッカーシ―の”No Country for Old Man”はイエーツの「ビザンチウムへの船出」からの引用。2007年コーエン兄弟が映画化していますが、邦題の『ノーカントリー』では何のことか分からない。「ビザンチウムへの船出」は『塔』(The Tower、1928年)に収録されています。1923年にノーベル賞を受賞した後ですが、詩境は深みを増し、老境への思いを表出しています。若さや命の営みの饗宴とは無縁の老人は無視されるような世界を離れて、ビザンチウムへと旅立つ歌です。

  写真は左から保安官(トミー・リー・ジョーンズ)、組織の金を盗んだモス(ジョシュ・ブローリン)、究極?の殺し屋(ハビエル・ベルデム)。