買い出し

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 9月9日にお彼岸前の墓参り(本当は墓のチェック)に行って以来の、街への外出。琴似や円山ではなく、大通り・駅前への遠出?を街への外出と言っています。

 まず駅前のビックカメラの自転車売り場へ。電動アシスト自転車は6万~10万円前後がけっこうありました。でもデザインがいまいち。2年前に説明してくれたA田君と言う親切で詳しい店員さんもいなかったし。

 開店直後の「南国酒家」(ステラプレース)でランチ。しばらくメニューから消えていた「まん丸一口餃子」を注文。眼下の札幌駅南口の駐車場を眺めながらビールと紹興酒で。担々麺も美味しかった。

 食後の買い物。東急デパートの可否茶館、味の浜藤で鮭とさば、向かいの菊乃屋で豆腐、地下鉄に乗って大通りの丸井で海苔、コロンでハードトーストとデニッシュ・コロネ、三越でスモーク・サーモンと和幸でとんかつ、たくさんの荷物を袋に整理して帰宅しました。

 まるで買い出しのような荷物になってしまい、もう少しひんぱんに出ればこんなに荷物にならないのにと反省しました。

 連休最後の火曜日はテニスを終えてシャワーを浴びてビールを飲んでいると、S根さんが来ているとS井さんから電話が来たので、コートへ。

 病状の説明を受けていると、S根さんの弟のS根君がランニングで通り過ぎる。この数年で2回も足の大けがをしたので、このコート(市営なのでアスファルトです)、少しうまいメンバーとテニスをするのが不安のようです。僕の様に激しく走らない社交テニス(S根さんが僕のテニスをそう言っていました)にすれば怪我はしないと思います。

 テニスって知らない人は優雅なスポーツの様に思っていますが、実際はけっこうハードで、前後左右に急に動きます。バドミントンほどではないでしょうが。僕は自分が届くボールでもあっと言って走り始めないのがよくないと自覚しているのですが。すぐに間に合わないとさぼってしまう癖です。

 毎回、ボールから最後まで目を離さない、かかとを地面にくっつけないですぐに走り出す準備をする事にしているのですが。今度はあっと言う代わりに走り出す事を最優先の注意事項にしようと思います。

ヘミングウェイ、コルトレーンなど

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 16日(水)から書いていないけれど、特に理由はありません。何となく。

 またファラオ・サンダース、またスティーリー・ダン、久しぶりにハッピー・エンド(日本のロック)、小坂忠などを聞きつつ、そしてヘミングウェイを研究会のために読みつつ、時代小説などいつもと同じテーマなので書きずらい。

 ハッピー・エンドってもっとロックぽいと思っていたけれど、『風街ろまん』(1971)のCDを買って聞くとずいぶんとのんびりとした音楽だったんですね。LPで持っていたような記憶もあるのですが。「~です」という歌詞が新鮮でもあったのかな。僕は岡林信康のバックをしていたアルバム『見るまえに跳べ』(1970)のバックの演奏が印象に残っています。

 小坂忠は「ほうろう」という曲が有名で、1970年代中ごろに厚生年金ホールでのコンサート聞きに行って前の方でみんなと一緒に踊っていた。金子まりのボーカルもよかった。

 最近「アメリカーナ」という音楽用語を知りましたが、これはアメリカのロック、ソウル、ゴスペル、カントリー、ジャズもそうかな、ポピュラー音楽のジャンル横断的なありかたを言うようですが、これって用語はとにかく意味している事はごく当たり前です。

 でザ・バンドもいわばアメリカーナだけど、同時代の日本のロックと比べるとかなり広がりと深さがありますね。

 『コルトレーンサウンド』に収録されている「エキノックス」のサンダースのカバーはOh, Lord, Don't Let Me No Wrong(1987)に入っていてけっこういいです。ま、40才で亡くなったコルトレーンと、50才に近くなった円熟期ののサンダースのサウンドを比べても不公平かな。

 ヘミングウェイは昨日のZoomによる研究会のテーマ。取り上げた作品は「ギャンブラー、尼僧、そしてラジオ」という作品で、ナイフで刺されたメキシコ人のギャンブラー、病院の看護婦を助ける尼僧と、ヘミングウェイとされる作家の対話によって、人種と宗教と革命が語られます。

 今日は少し遠く(といっても家から1キロ)のコートで早朝テニス(7~9時)、その後ホーム(コート)に戻って1時間、腰が痛いと言いながら元気なのかも知れません。

 写真はスティーリー・ダンのライブ・アルバム。

秋の気配

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 日月と雨だったので、火曜日は山の手コートにテニスに。でもアスファルトのコートに立つと腰が痛い。早々に引き上げる。

 午後は中学の同級生から久々に電話が来ました。たまに飲みたいねと言うので、何人かで飲もうという話になりました。それと来年の4月は70才になる年なので湘南の茅ヶ崎のY内君の居酒屋(小料理屋)に皆で集合しようという話は去年の7月のメロン・パーティの時に決めましたが、実現するか。

 首相を目指したわけではないのに、N階という伝統的な自民党のボスのキング・メーカーの術中にはまってなってしまった官房長官。前O阪府知事のH本が酒も飲まないで改革について熱く語っていたというけれど、党内人事は派閥に配慮、閣僚人事も大体は居ぬきで、自分のやった官房長官の後任に選んだのがあの言い抜けのうまいK籐厚労大臣だと。

 コロナ対策の責任者のN村さんの説明はあまりちゃんとしていないけれど人柄は悪くないというのが分かるような気がする。それに比べてK藤はもう少し頭はいいけれど、人柄はよくない。自分の責任を人のせいにする/できる頭脳はあるんですね。あと笑顔と紙一重のニヤニヤを官房長官として見せられるのはつらい。ま、見なければいいんだけれど。

 写真は秋の寄せ植えのファウンテン・グラスの折れたのをススキに見立てて一輪挿しに。

牧歌的とスピリチュアリティ

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  相変わらずファラオ・サンダースを聞いています。5千円とか1万円のCDは買えませんが、2500円くらいなら何とかなるので、『神話』という変な邦題のTauhid(1967)とJewels of Thought (1969 ) がカップリングされたCD、1977年のLove Will Find a Way, 1983年のHeart Is a Melody、1985年のShukuru、1987年のOh, Lord, Let Me Do No Wrong、1990年のWelcome to Love, 1993年のCrescent with Love, 1995年のBallads with Love, 1996年のMessage from Home, 1998年のSave Our Childrenなどを買い足していると、10枚前後のファラオのアルバムが20枚近くになって、やっぱり楽しく聞き続けています。

 40年近く好きでなかったミュージシャンの音楽がこんなに気入るなんて。ただloveがしつこく出て来るタイトルやジャケット、風貌はやっぱり好みではありません。まぁ、loveってキリスト教の愛でもあるので仕方ないのですが、日本語に大人のおっさんのアルバムに愛、愛って続くのにはなかなかなじめない。

 牧歌的なサウンドがスピリチャルとどう関係するかについて考えています。まず「牧歌」。これはpastoralと言って、西洋の伝統的な牧人が自然の中で寛ぐ様子を描く詩のテーマです。羊飼いが放牧する羊を何気なく見守って、自分は木の下で横になって、時には竪琴でも弾くと言う風景です。

  牧場、牧人は牧場や自然と関係するってわかるけど、牧師の「牧」は?これは英語(ドイツ語でも)pastorで羊飼いです。羊が信者。羊飼いは教会を管理し、信者を教導する立場です。でパストラルに戻ると牧歌的というのは、都会の狂騒的な利益中心の生活と対照的な、自然と共存する心穏やかな生き方を称揚するスタンスです。で、それはすぐにスピリチャルな方向とつながります。でもキリスト教的に神の方に行かなくても、自然との結びつきでも十分スピリチャルになります。その方が東洋の自然と対立しない、共存/共生する自然観になって心地いい。

  ファラオ・サンダースに戻ると、70~90年代を通して聞くと、アフリカや他の第三世界のワールド/エスニック・ミュージックのリズムや楽器と親和性が強いのは、その音楽的なスタンスが自由で柔軟だからではともいえます。それは融通無碍で何でもいいとかなり近い自由。つまりリジッドに「自由」というのを考えていないで、ちゃんとした「自由」から適当な「自由」までのふり幅が広い。

  でも根っこにコルトレーンと一緒にやって来た時に真面目系のフリーもある。1曲の演奏でも、アルバム単位でもモダン・ジャズの伝統とフリー・ジャズの部分と、ファラオ・サンダース自身の主張と時代の音楽が絶妙と言うか適当にブレンドされているように思えます。適当と言うのは適切とちゃらんぽらんがいい塩梅で混合しているという複合的な意味です。それって人間の、そして世界のある程度まで理想的なあり方ではとまで思ってしまいました。

  写真は1985年のShukuruというアルバムのジャケット。奥さんに捧げたアルバムのようですが、ジャケットの中にある写真のシュクルさんはけっこうきれいでした。

好きよ、たろちゃん

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  変なタイトルですが、宇江佐真理の『無事、これ名馬』の連作短編の冒頭エピソードのタイトルです。

 函館生まれの女流時代小説作家による礼儀正しくも弱虫の武家の少年(7才)が主役のほっこり小説です。

 おねしょが治らない、剣術の試合に負けて泣き出す村椿太郎左衛門は火事の時に見かけた町火消の頭に「男の道」を教示してもらうべく訪ねます。

 このたろちゃんがかわいい。健気、優しい、3才の妹がほっぺにぷう(チュ)をしたくなるような、たよりないけれど愛らしい武家の長男です。

 この「男の道」修行の先である町火消の頭の家が武家とはまた別の意地と粋の世界を体現している。頭の吉蔵の娘お栄と頭の姉夫婦の息子(お栄の従弟)金次郎の関係。恋人同士だったけれど金次郎が浮気をして子供ができてしまったので、お栄は別な火消と結婚せざるをえない。そのお栄や吉蔵の屈託をたろちゃんが癒してくれます。

  武士の体面や火消の男気は社会的には肯定されているけれど、少し無理のあるプライドです。例えば火消は火事を消して人々を守るためなのに、火消のどこそこの組が一番乗りをしたという縄張り意識が先行するようになります。火消としての矜持は火事を消して人や町を守る事のはずが、火事場に一番乗りをして自分の組の纏(まとい)をそこで立てる事になってしまう。

 そのプライドのために仕事の目的や自分の正直な気持ちを抑え込んだり、人を傷つけたりしてしまう。そんな中での太郎左衛門少年の正直さ、優しさがプライドの不自然な現れ方に疑問を持つ登場人物と読者の気持ちをホッコリさせてくれます。

 ただたろちゃんのお父さんの言う「無事、これ名馬」は少し違うかなと。「名馬」といってしまうと違う。もちろん「駄馬」ではない。そのどちらでもない状態や表現があればいいのだけれど。お父さんは『春風ぞ吹く――代書屋五郎太参る』の五郎太で、貧しい御家人の息子が代書屋のバイトをしながら学問吟味(試験)に通ってお役に付くまでの話。この五郎太は人が良く一生懸命なので師に恵まれ、良き指導のもと、恋人との祝言のために勉学に邁進する、青春・恋愛・就職・人生の物語でした。

 そしてその息子のたろちゃん10才は、物語の終わりには30才をこえて家督を継ぎ、祝言の行列を見送る吉蔵に手を振って挨拶をします。「名馬」ではなくとも、普通のいい人が幸せになる読後感の爽快な物語。

 写真は村上豊の描くたろちゃん、お栄、吉蔵。

9.11の後

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 思い出しながら書いていますが、9.11の後のアメリカと言うか直接的にはニューヨークですが、星条旗と国歌が氾濫していました。小さな星条旗を自転車に付けたり、Star-Spangled BannerとAmasing Graceもメトロポリタン美術館のコンサートでも必ず演奏されていました。

 土曜日の夕方、中2階のスペースで無料の4重奏団の演奏が聞けました。それが9.11以後は最後に国家が演奏され、多くの人は立ち上がって聴きます。僕らは座っていました。ところが立っていた白人のおばあさんが座ったままのたぶんヒスパニック系の若者たちに「あんたたちどうして起立しないの」と怒ったように言い、若者たちはしぶしぶ立ち上がっていました。

 即席の、少しヒステリックな愛国主義が広がってしました。初めてアメリカ本土が攻撃されて驚き、そして恐れ、それが怒りにつながっていったんでしょう。

 最終的には犯人と目されたリーダーが裁判~死刑という手続きなしに殺害されましたが、この人たちもアメリカが対ソ連のために訓練した後、見捨てたんですね。そんな事を繰り返しているアメリカ(国家として)について、イギリス文学~アメリカ文学アメリカ文化へと研究をシフトしていく中で知るようになってけっこうアメリカが好きでなくなりました。

 アメリカ文化って面白いけど、底が浅い。アメリカって若さを称揚するけれど、経験とか年齢による人生の知恵とかはあまり重視しない文化だなぁと、文学や映画、音楽を聞きながら考えてしまいました。

 大坂なおみが決勝に進出した全米オープン。19年前はヒンギスと躍進中のビーナス・ウィリアムスが戦っていました。チケットは85ドル、1万円弱だったか。会場のフラッシング・メドウズはマンハッタンから地下鉄でクィーンズに行って、最寄りの駅で降りたら全米オープンの会場と反対側はニューヨーク・メッツのスタジアムだったような。もう一人の松井が在籍していたような。「ような」が多い19年前の事です。

19年前の9月11日

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 今日は9月11日。午前中雨の合間を縫ってテニス。

 午後は整形外科で肩の血腫の状況を診ていちおう治療終了。

 19年前の朝マンハッタンのアパートで「ワールド・トレーディング・センターに飛行機が突っ込んだようだけど大丈夫?」という札幌からの電話で起きました。電話で話しているうちに2棟目に2機目が。

 前の日ナイアガラの滝から戻るのにニューヨーク州北部のバッファローからラガーディア空港までの便が天候不良のため出発が延びて、ファースト・クラスにしてくれました。深夜アパートに戻って朝寝をしていたら、かみさんのお姉さんから電話があったのでした。その後大学の事務からも。安否を尋ねるメールも。

 現場のダウンタウンからミッドタウンのアパートまで5キロくらいあったので音振動もありませんでした。ただ後から風の具合で火事の後のようなにおいがしましたけれど。

 1週間くらい後に現場に行って写真などを撮って頼まれた現場報告をあるサイトに投稿。後は日本に送る荷物の整理と郵便局への往復。

 帰る前にジャマイカに行こうと思ったけれど中止。帰りの直行便もキャンセルで飛行機を取り直しました。

 かみさんが先に日本に帰り、僕はアパートの解約やお土産など買いに。

 9月29日のJFK空港は荷物のチェックが厳しく長蛇の列でした。アパートで丁寧にパックしたスーツケースを開けて荷物をチェックされた後、締め直すのが大変だった。それと靴も脱がされてチェックされました。

 帰ってすぐ2学期の授業があって、9.11の体験はけっこう使えました。

 写真は9.11の前のナイアガラでののんびりとしたひと時。49才ってけっこう若いですね。