牧歌的とスピリチュアリティ

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  相変わらずファラオ・サンダースを聞いています。5千円とか1万円のCDは買えませんが、2500円くらいなら何とかなるので、『神話』という変な邦題のTauhid(1967)とJewels of Thought (1969 ) がカップリングされたCD、1977年のLove Will Find a Way, 1983年のHeart Is a Melody、1985年のShukuru、1987年のOh, Lord, Let Me Do No Wrong、1990年のWelcome to Love, 1993年のCrescent with Love, 1995年のBallads with Love, 1996年のMessage from Home, 1998年のSave Our Childrenなどを買い足していると、10枚前後のファラオのアルバムが20枚近くになって、やっぱり楽しく聞き続けています。

 40年近く好きでなかったミュージシャンの音楽がこんなに気入るなんて。ただloveがしつこく出て来るタイトルやジャケット、風貌はやっぱり好みではありません。まぁ、loveってキリスト教の愛でもあるので仕方ないのですが、日本語に大人のおっさんのアルバムに愛、愛って続くのにはなかなかなじめない。

 牧歌的なサウンドがスピリチャルとどう関係するかについて考えています。まず「牧歌」。これはpastoralと言って、西洋の伝統的な牧人が自然の中で寛ぐ様子を描く詩のテーマです。羊飼いが放牧する羊を何気なく見守って、自分は木の下で横になって、時には竪琴でも弾くと言う風景です。

  牧場、牧人は牧場や自然と関係するってわかるけど、牧師の「牧」は?これは英語(ドイツ語でも)pastorで羊飼いです。羊が信者。羊飼いは教会を管理し、信者を教導する立場です。でパストラルに戻ると牧歌的というのは、都会の狂騒的な利益中心の生活と対照的な、自然と共存する心穏やかな生き方を称揚するスタンスです。で、それはすぐにスピリチャルな方向とつながります。でもキリスト教的に神の方に行かなくても、自然との結びつきでも十分スピリチャルになります。その方が東洋の自然と対立しない、共存/共生する自然観になって心地いい。

  ファラオ・サンダースに戻ると、70~90年代を通して聞くと、アフリカや他の第三世界のワールド/エスニック・ミュージックのリズムや楽器と親和性が強いのは、その音楽的なスタンスが自由で柔軟だからではともいえます。それは融通無碍で何でもいいとかなり近い自由。つまりリジッドに「自由」というのを考えていないで、ちゃんとした「自由」から適当な「自由」までのふり幅が広い。

  でも根っこにコルトレーンと一緒にやって来た時に真面目系のフリーもある。1曲の演奏でも、アルバム単位でもモダン・ジャズの伝統とフリー・ジャズの部分と、ファラオ・サンダース自身の主張と時代の音楽が絶妙と言うか適当にブレンドされているように思えます。適当と言うのは適切とちゃらんぽらんがいい塩梅で混合しているという複合的な意味です。それって人間の、そして世界のある程度まで理想的なあり方ではとまで思ってしまいました。

  写真は1985年のShukuruというアルバムのジャケット。奥さんに捧げたアルバムのようですが、ジャケットの中にある写真のシュクルさんはけっこうきれいでした。