好きよ、たろちゃん

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  変なタイトルですが、宇江佐真理の『無事、これ名馬』の連作短編の冒頭エピソードのタイトルです。

 函館生まれの女流時代小説作家による礼儀正しくも弱虫の武家の少年(7才)が主役のほっこり小説です。

 おねしょが治らない、剣術の試合に負けて泣き出す村椿太郎左衛門は火事の時に見かけた町火消の頭に「男の道」を教示してもらうべく訪ねます。

 このたろちゃんがかわいい。健気、優しい、3才の妹がほっぺにぷう(チュ)をしたくなるような、たよりないけれど愛らしい武家の長男です。

 この「男の道」修行の先である町火消の頭の家が武家とはまた別の意地と粋の世界を体現している。頭の吉蔵の娘お栄と頭の姉夫婦の息子(お栄の従弟)金次郎の関係。恋人同士だったけれど金次郎が浮気をして子供ができてしまったので、お栄は別な火消と結婚せざるをえない。そのお栄や吉蔵の屈託をたろちゃんが癒してくれます。

  武士の体面や火消の男気は社会的には肯定されているけれど、少し無理のあるプライドです。例えば火消は火事を消して人々を守るためなのに、火消のどこそこの組が一番乗りをしたという縄張り意識が先行するようになります。火消としての矜持は火事を消して人や町を守る事のはずが、火事場に一番乗りをして自分の組の纏(まとい)をそこで立てる事になってしまう。

 そのプライドのために仕事の目的や自分の正直な気持ちを抑え込んだり、人を傷つけたりしてしまう。そんな中での太郎左衛門少年の正直さ、優しさがプライドの不自然な現れ方に疑問を持つ登場人物と読者の気持ちをホッコリさせてくれます。

 ただたろちゃんのお父さんの言う「無事、これ名馬」は少し違うかなと。「名馬」といってしまうと違う。もちろん「駄馬」ではない。そのどちらでもない状態や表現があればいいのだけれど。お父さんは『春風ぞ吹く――代書屋五郎太参る』の五郎太で、貧しい御家人の息子が代書屋のバイトをしながら学問吟味(試験)に通ってお役に付くまでの話。この五郎太は人が良く一生懸命なので師に恵まれ、良き指導のもと、恋人との祝言のために勉学に邁進する、青春・恋愛・就職・人生の物語でした。

 そしてその息子のたろちゃん10才は、物語の終わりには30才をこえて家督を継ぎ、祝言の行列を見送る吉蔵に手を振って挨拶をします。「名馬」ではなくとも、普通のいい人が幸せになる読後感の爽快な物語。

 写真は村上豊の描くたろちゃん、お栄、吉蔵。