明治の会津少年の苦闘

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『ある明治人の記録』(中公新書)を読みました。「会津人柴五郎の遺書」と副題のあるこの本の編者は石光真人(まひと、1904‐75年)。陸軍の軍人だった父親の真清(まきよ、1868‐1942年)の遺稿を整理してしばしば訪ねた相手が、父の知り合いの柴五郎(1860‐1945)だった。

 柴と石光のつながりは熊本出身の軍人で青森県大参事(知事)だった野田豁通による。会津人は戊辰戦争後、青森に移転させられたが、野田は戊辰戦争の敵藩についても分け隔てなく面倒を見たようだ。柴五郎も野田に給仕の仕事を世話してもらい、のちに幼年学校に通った。幼年学校といっても年齢は高校生か。

 石光も熊本を出て郷里の先輩の野田に預けられるが、遊び暮らしていたので野田の依頼で少尉になっていた柴は厳重に指導した。その後も10才違いの軍人として付き合いを続けた。元に戻ると息子の真人が父の事績を知るべく柴を訪ねて少年時代の事を聞いていると、柴は自分の草稿を持ち出し、添削を依頼される。それがこの「会津人柴五郎の遺書」。

 なぜ80代の柴が石光に添削をお願いしたかというと、柴の少年時代の覚書にあるように、10才で戊辰戦争に遭遇し、その後は敗軍・朝敵の藩士の一族として10代の前半には日本語の読み書きを学ぶ機会を逸して陸軍の幼年学校に15才で入学した。そこはフランス人の教師がフランス語で教える場であった。フランス語の読み書きはできるが、日本語はできない。つまり小中学校の教育を抜かして、高校からいきなりフランス人によるフランス語によるフランスの歴史や作文を教えられる。これが3年ほど続いた後で、政府が学校の教育方針を変えたのであった。

 この五郎少年が幼年学校に入るまでの苦労と言ったら、読んでも涙が出てくるような。藩閥政府の横暴と言っても言い足りない負けた側への残酷な処置だった。先週書いたように一族の女子、祖母・母・姉妹は戦力にならず兵糧も無駄になり、恥ずかし目を受ける可能性があると言うので自刃。残った父や兄たちとは離れ、ひとり一人学僕(学びながら務める書生のようなものか)とは名ばかりの下男のような仕事を続けて、仕事が亡くなった時には

一夜の宿を求めて流浪したり。

 ちなみに明治の政治小説『佳人の奇遇』を書いた東海散士は五郎の兄四郎で、白虎隊の生き残り。病弱で城で伏せっている間に白虎隊は討ち死にをしたのです。やはり会津人の薩長への憎しみは大変なもので、大久保・西郷の最後についても「当然の帰結なりと断じて喜べり」と記している。

 写真は知り合いの個展に贈った花束です。まちがって自分の家に送ってしまい、配達してくれたクロネコヤマトの人にそのまま持って帰ってもらった。その後2日遅れで東京銀座の会場についたようです。