会津少年のその後

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また柴五郎です。『守城の人―明治人柴五郎大将の生涯』(光文社NF文庫)を読んでます。理由は『明治の会津人』が柴の幼年学校時代で終わり、その後も柴五郎について知りたいと思う気持ちが置き去りにされたからです。

 『守城の人』の方は、遺族の許可を得てその後について柴の日記等から再構成しているようです。しかし柴はなぜ幼年学校時代までの草稿を『明治の会津人』の編著者石光真人に託したのでしょうか。想像ですが、士官学校以降の柴は努力と誠実な人柄と能力もあって比較的順調な軍人人生を歩んだと言えます。その前の会津藩が滅びて祖母・母・姉妹が自刃し、残った男性家族の苦闘、それも薩長政府の敗者への無慈悲な処遇に一矢(一筆?)報いたい、後世に歴史の愚かさと非道を書き残したいと言う思いだったのでないでしょうか。

 1992年光文社、2002年光文社文庫に入った『守城の人』の作者は村上兵衛(1922‐2003年)という軍人出身の作家です。23才で中尉として終戦を迎え、東大独文を卒業後『新思潮』(第15次)により作家活動を開始したようです。友人の三島由紀夫が死んだとき司馬遼太郎と三島を偲んだ対談をしています。村上と司馬は同い年で、司馬は戦車隊にいて中尉で敗戦を迎えている。

 700頁余の大部の文庫は厚くて読みづらい。特に横になって読むと。古本なのもあってなので目が少し・・・カビのせいかな。でも面白い部分もあり読み終えました。正直に言うと、前半の3分の1くらいは『明治の会津人』≒幼年学校時代までなので、その後を中心に読みました。その後に前半も(少し流したけれど…)よみました。柴は清や韓国、そしてロシア、さらにイギリス・フランスなどの侵略の思惑が錯綜している東アジアに関心をもって中国語を学んでいた。それが後に役に立つ。幼年学校で学んだフランス語も。

 1898年の米西戦争の観戦武官としてアメリカ派遣の時には『坂の上の雲』で有名な秋山真之とも遭遇する。お兄さんの好古とは陸軍士官学校同期(第3期)。そして清の公使館付き武官として駐在していた時に義和団事件が起きる。反キリスト教的集団の義和団を清の実力者西太合は最初征伐しようとしますが、なかなかできないのと、「扶清滅洋」をスローガンとしている事もあり認めると言うか利用するようになります。アヘン戦争から日清戦争の敗北もあり、食い物にする列強と日本への反発から列強に宣戦布告をします。

 義和団が北京を包囲し、呼応するように清政府も列強に宣戦布告。イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の8か国連合は北京に軍隊を送ろうとしますが、列強同士の利害の衝突やにらみ合い、また派遣軍が義和団の妨害もあり中国国内で進軍できないなど、結局応援もなく2か月近く北京で籠城します。そこで活躍したのが我が柴五郎中佐です。

 ここまででけっこう長くなったので、「北京の55日」はまた別の機会に。

 写真は中島公園の池のカモ。餌をやるせいか、たくさんいて、人見知りしません。